糸静線のむこうへ

糸静線を越えたい。というのが最近の休日にどこか行くときのキーワード的なやつなのである。別に深刻な話ではなくて、日常(さらに限って言えば、仕事)からできるだけ遠いところに逃げたいということです。はたらきたくないだけ。

じゃあ逃げるってのは、どこまで行けば逃げ切れるのさ。隣駅まで行けばいいのか。市外へ出ればいいのか。県外へ出ればいいのか。むろん日常(繰り返し言うと、仕事)から逃れることは不可能でいつか戻らなければならないのがつらい、つらいですね、困ったものだね、ともかく個人的な境界線を関東平野の端っこに置いていた。関東平野がどこからどこまでを指すのかよくわからないけれど、大雑把には東京なら高尾山を過ぎて小仏峠を越えるあたりですか。神奈川なら箱根ということにしよう。

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▲酒匂川のむこうに箱根。あれを越えたら関東平野を脱出できるのか。

これは根拠の曖昧な話なのですが、西日本のさして急峻ではないとはいえ山に囲まれて育った人間にとって関東平野は平らすぎるのです、広いのです。千葉県あたりに住んでいた頃はもともと香取海だったはずのあのだだっ広い平らな土地を見てじつに地の果てまで続いているような気がしていた。平野の向こうにぽつんと筑波山だけ小さく見えて、山はあまりにも遠く少ない。だからそう、関東平野から抜け出したかった。おことわりしておかねばならないのは、別に関東も千葉県も香取海沿岸のことも嫌いではないし良い土地に違いない、ただ観念的には抜け出さねばならないということです。複雑なのです。

ところが、いろいろやっているうちに次の疑問が出てくる。ひと山越えて例えば山梨あたりに行く。富士山の麓に行く。するとどうも関東から抜け出した気がしないことがある。慣れてしまってより強い刺激を求めるようになってしまったのか。いや、そうではなくて、もしかしたら関東平野と地質的にひとつながりになっている土地だからなのではないか。つまり、箱根を越えたとしてもフォッサマグナの凹みから抜け出せたわけではなく、関東平野的風景から逃れきれていない。ではどこまで行けば逃げ切れるのか。

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▲富士山はフォッサマグナの凹みの中に。

ここで、以前からなんとなく思っていたことがあるのです。東海道線を西へ下っていくと、安倍川を越えて薩埵峠をくぐったあたりで、ふっと急に風景に西日本の匂いがしてくる。西日本の匂いとは何かというのは適当な話なので訊かないでほしい。低い山がぐるりと囲んでいるのがそれっぽいのかもしれず、後付けで言うと、地質的にはここがフォッサマグナの西縁すなわち糸静線なのであるという、そのことです。ここを境にして東西の成り立ちが違う。ここから西は西日本も含めてひとまとまりになってる。

ただ、焼津というのは南が開けて平らで海につながっている。これはなんとなく相模っぽい感じもして、もうほとんど言いがかりなのだが関東平野っぽさから逃れきれていない。じゃあどうすればいいのか。もう少し西に行こう、掛川までいけば盆地だから山に囲まれている。大井川を渡り、遠江に入ろう。

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掛川城から。山にかこれまれている。

ここまで来るとなんだか落ち着いた気がします、あの山の向こうに東京があるとか横浜があるという感じはしない。おそらく山の向こうにはさらに山があり、熊かなんか住んでいるに違いない。海の匂いもしない。掛川の中心部から北西方向へ向かい原野谷川の橋を渡って堤防上を走っているときなどは、風景は熊本の菊池川沿いとか、近畿地方の小盆地を流れるもろもろの川にも似ている。ついに西日本的風景のある領域にやってきたのであり、窓を開けて入ってくる風にも仕事の匂いは混じっていないように感じられる。二日間しか逃避できないとはいえたいへんよろしい。コーヒーがおいしい。

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▲春林院古墳から原野谷川を見下ろす

この川沿いの低地を見下ろす台地の縁に春林院古墳があります。お寺の裏山で、墓地の中を通って墳丘へ登れるようになってる。墓地を通る前にお参りしておこうと思ってお寺に行ったら、お坊さんが出てきて「どうぞお入りください」と言って、縁のない土地なので遠慮するところはあるものの、上がってお参りした。11月のいかにも晩秋という感じの風が吹いて、川の堤防あたりで何かを燃やす煙が立っていて、勝手に西日本的と思うところの風景でもあり、のんびりしている。仕事は今でも糸静線の向こうでぐるぐると渦巻いているに違いないが、こちらはもはや安全地帯、背後の古墳のことなど考えているだけでよいのである。

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▲春林院古墳は円墳