伊那谷の古墳

今回は伊那谷です。長野県南部にある南北に長い谷。

地理院地図による、伊那谷の写真

伊那谷古墳時代中頃の5世紀に飯田市付近でなんかいきなり前方後円墳がたくさん造られるようになり、にわかにおもしろい感じになります。当時の最先端産業である馬の飼育・繁殖が大々的に始まったのと、日本の東西を結ぶ道「古東山道」が伊那谷を通るルートで成立したらしい、というのがその理由とのことで(1)(2)、今で言うと高速道路が通って工業団地ができて町が発展した、みたいな感じかもしれません。

以下は6年ほど前に見に行った飯田古墳群の写真。形がよく残っていてよろしいです。

▲飯沼天神塚(雲彩寺)古墳、2017年撮影

▲御射山獅子塚古墳、2017年撮影

それで、飯田のあたり(下伊那)の様子はわかったので、今回は伊那谷の北のほう(上伊那)がどうだったのかを見に行ってきました。

上伊那は古墳時代前期はもとより、中期以後になっても飯田ほどのたくさんの前方後円墳が造られるということはなかったようですが、かといって皆無でもない。

▲老松場古墳群1号墳

まず、近年の発掘で詳しいことが明らかになってきた老松場古墳群(3)天竜川左岸側の崖上にあり、天竜川の低地を挟んで木曽山脈を見渡せて眺めが良いです。古墳群のうち1号墳は5世紀初頭の前方後円墳。5世紀初頭ということは、おそらく伊那谷で馬産は始まっておらず、幹線としての古東山道も成立していないはず。まだこのあたりはきっと静かな田舎で、古墳の主はそんな田舎の村長さんみたいな人だったのではないか、という気がします。

▲老松場古墳群7号墳

7号墳は円墳。その他にも小さめの古墳が並んでいます。2号墳は5世紀後半との情報があり(4)、とすると馬産が始まり伊那谷がにぎやかになり始めた頃です。この頃の村人は崖下の道を馬が行き交い始めたのを見て驚いたかもしれないし、「そのデカい鹿みたいなやつは何だ?」と問いかけたかもしれない。

▲老松場古墳群2号墳は平べったい。林の奥に7号墳が見える。

続いては松島王墓古墳。こちらは少し北の箕輪町にあり、6世紀の前方後円墳です。林の中に墳丘がよく残っていて、後期古墳らしくやや急な土盛がわかります。写真ではわかりにくいけど、くびれ部にある造出の存在感が結構ある。

▲松島王墓古墳を横から

▲松島王墓古墳、斜めから

6世紀というと老松場古墳群1・2号墳よりは後で、飯田古墳群と同じ頃です。実際、飯田古墳群にあるのと似た埴輪が出土しているそうで、連絡を取り合うような関係性はあったようです。古東山道を行き交う人々の中継拠点を運営する代表者のような人のお墓、かもしれません(5)

という感じで、伊那谷の全体の様子がなんとなくわかってきたような気がします。

 

〔参考文献〕
(1)右島和夫(2019)「古墳時代における古東山道の成立と馬」『馬の考古学』雄山閣
(2)渋谷恵美子(2019)「伊那谷の古墳と馬飼い」前掲書
(3)関西大学文学部考古学研究室「老松場古墳群」https://wps.itc.kansai-u.ac.jp/ariku/2021/03/49/ (2024年1月13日閲覧)
(4)中日新聞「埋葬と埋納の施設確認、伊那・老松場古墳群2号墳の発掘 9月2日に調査体験教室」https://www.chunichi.co.jp/article/758253 (2024年1月13日閲覧)
(5)箕輪町郷土博物館(編)「松島王墓を考える」https://www.town.minowa.lg.jp/html/pageview_matsushima/book/seo/0001.html (2024年1月13日閲覧)

衛星画像は国土地理院https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.htmlデータソース:Landsat8画像(GSI,TSIC,GEO Grid/AIST), Landsat8画像(courtesy of the U.S. Geological Survey), 海底地形(GEBCO)