ぐんまのよあけ

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低めの前方部と、細いくびれ部と、長い年月を経てやや崩れてなめらかな曲線になった斜面。古墳に限らずだけど、設計の美しさに年月が程よく加わると発酵食品のように旨味が出てくるのです。前橋八幡山古墳。原形がしっかり残っていて、しかし年月相応にシワシワになって味の出た、古漬けのような古墳。

これとほぼ同時期の古墳時代前期に、現在のほぼ群馬県の領域(以下グンマーとします)に古い前方後方墳(後円墳でない)が散在しています。

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▲元島名将軍塚古墳。

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▲藤本観音山古墳。

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▲寺山古墳。

これらが造られる以前に古墳はなく、したがってこれらがグンマーの古墳の先駆けである。最初の古墳を造った初代群馬県民(ということにしたい)はパワフルな移住民でもあったらしいです。

三世紀前半になると、上毛野と北武蔵の低湿地には東海西部系の外来集団が大量に移入してきた。(1)

それまで住んでた先住民は湧き水の近くで自然に流れる水で農業をして暮らしていて、川沿いの水浸しの湿地を田んぼにしようというつもりはなかった。あるいは開発できさえすればいっぱい米穫れるじゃんと思いつつも、土木技術がなかった。

そのグンマーの未開の低湿地に、あるとき大量の名古屋人(ということにしたい)が、大量の農作業具を担いで、当時としては最先端の土木技術を持って押し寄せてきた。その技術というのが、古墳時代にこんなことできたのかとちょっと驚いてしまったほどのものです。いや、古墳造れるんだからできるんだ。なるほど。玉村町砂町遺跡の例ではこういう感じです。

①湿地中の樹林を伐開→②小溝(幅1m、深さ50cmほど)を方格状に繋いで余水を小河川に排出・半乾燥→③長大な水路(幅3~10m、深さ1m)を開削して系統的な用水を確保しつつ水田化を促進

大水路は延長数kmに及ぶ可能性があり(2) 

 そうして未開の地グンマーをまたたく間に時代の最先端をゆく産業地帯へと変貌させ、その記念碑として東海人好みの前方後方墳を築いた。我々はその記念碑を見ているわけですね、今や古漬けになってしまったけれども。

この東海からの移住はかなりの苦労があったようです。弥生時代の終わり頃から「過去7800年間でもっとも長くきびしい寒冷期」(3)というほどに寒冷化が進んで、農業が打撃を受けて、例えば岐阜県では少し後の時代だけれども、農耕ができなくなった痕跡があるらしい。(4)そういう絶望的な状況を打開すべく少しでも可能性のある土地を探して、町ぐるみで移住した。パワフルというか、実際には悲壮と言ったほうがいいのかもしれないです。

ここに人が住んで発展して東国という領域ができて、武士がいっぱい出てきたり幕府ができたり東京になったり首都圏や関東という現代の地域意識みたいなのにつながっているとすると、風が吹けば桶屋が儲かるレベルの話になるけれど、古墳時代の開発者のおかげで東京があると言えなくもない。そう思って見ると、初代グンマー開拓民はじつに偉大であるようです。


参考文献
(1)若狭徹『古代の東国1 前方後円墳と東国社会』吉川弘文館、2017
(2)若狭徹「耕地開発と集団関係の再編」『古墳時代の考古学7 内外の交流と時代の潮流』同成社、2012
(3)坂口豊『尾瀬ヶ原の自然史 景観の秘密をさぐる』中公新書、1989
(4)岐阜大学プレスリリース「古墳時代の気候変動と人間活動の密接な関係 大垣市荒尾南遺跡の花粉化石が語る歴史」2019年10月27日閲覧 https://www.gifu-u.ac.jp/news/research/2019/09/entry09-7423.html