江釣子古墳群

岩手県北上市にある江釣子古墳群に行ってきました。

▲猫谷地14号墳

縄文文化の北東北が7世紀ころに農耕を始め、南から古墳を造る文化を受け入れたことによって生まれた末期古墳。ひと目見て感じるのは、倭国の(南東北以南の)古墳に比べて明らかに小さくて主張が控えめだということです。これは北東北の末期古墳全体としてそうであるようで、古墳に葬られるようなリーダー層は存在するものの、格差は明瞭でない。また倭国のように政治的な意味も強くない(参考文献)。実際がどうだったかはわからないけれど、古墳を見る限り、素朴な人々だったのではないかという気がします。

▲五条丸10号墳

末期古墳については八戸のも見に行きましたが、あちらは埋葬施設が木棺直葬なのに対して、江釣子古墳群含め北上川流域には横穴式石室タイプがあります(参考文献)北上川文化圏みたいのがこの時期(7~9世紀頃)にあったのかもしれない。
と考えながら地図を見ていると、北上川というのは結構存在感のある川です。岩手県の内陸を縦に貫き平野は広く、南東北との境まで流れ下る。実際に流域を旅してみると雪解け水で水量は豊富で、遠くに見える雪山がきれいです。7世紀頃にこの流域が農耕化して独自の文化圏を築き始めたとなると、南の人々からはフロンティアに見えただろうか、脅威と思っただろうか。そこらへんも蝦夷征討につながっていく原因になったのかもしれません。

盛岡市内の北上川岩手山

〔参考文献〕
藤沢 敦(2015)「北東北の社会変容と末期古墳の成立」『東北の古代史2 倭国の形成と東北』吉川弘文館

小櫃川中流の前方後円墳と久留里

今回は房総半島の真ん中あたり、小櫃おびつ中流域の前方後円墳です。というわけでJR久留里線小櫃駅で下車。この小櫃駅や隣の俵田駅の近くには白山神社古墳、浅間神社古墳、飯籠塚いごづか古墳という三つの前方後円墳があります。今回行くのはそのうち駅から徒歩でアクセスしやすい白山神社古墳。

小櫃駅

久留里線は1両のディーゼルカーがときどきやってくるだけのローカル線で周囲も相応に田舎だけれども、山の中というわけではなく、小櫃川流域の平野は開けていて田んぼが多い。現代でも流域の木更津市君津市の田んぼの面積は千葉県内で上位に入っていて(1)古墳時代にもきっと稲作が盛んだったのだろうなあという感じがします。三古墳が平野の奥の中流域にあることについては、水源の掌握が理由ではないかという(2)

駅から10分少々で白山神社に到着。入口にある古墳の説明板によるとかなりきれいな前方後円形が残っているようです。

白山神社の鳥居と社叢

白山神社古墳の案内看板より

実際に神社の裏山に行ってみると残りの良い前方後円墳がありました。林にはなっているけれど下草は刈られていて見通しはほどほどに良好です。くびれがはっきりしている前期型の古墳。墳丘のまわりは平坦になっていて古墳の形が際立っているし、平野に突き出した丘の上にあるのできっと築造当時は遠くからでも見栄えがしたでしょうね。いい設計の古墳です。

▲前方部の斜め前から。奥が後円部。

白山神社古墳サイドビュー

ところでこの古墳の主が掌握しただろうという水源地、それが久留里線でもう一駅進んだところにある久留里です。街のあちこちに井戸があって水が湧き出しています。

久留里駅前の水汲み場

水があれば酒があり、駅前の酒ミュージアムで市内の酒を試飲できます。とりあえず駅近くの3軒の酒蔵のお酒を飲んだんですが、それぞれ個性が違いますね。同じ土地の水を使っているのに面白いものです。

▲酒ミュージアムの試飲、3銘柄+水で600円

〔参考資料・文献〕

(1)「作物統計調査 令和4年産市町村別データ」(農林水産省https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?stat_infid=000040022213(2024年3月31日閲覧)

(2)若狭徹(2017)『古代の東国1 前方後円墳と東国社会 古墳時代吉川弘文館

有年、古墳がたくさんあるところ

山陽新幹線相生駅から鈍行に乗り換えて一駅、有年うね駅で下車。周辺には弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が多い、というわけで駅前の観光案内所でレンタサイクルを借りて古墳巡りに出かけます。

▲駅前の観光案内所で借りたママチャリ

ところでこの自転車、タイヤの空気はきちんと入っているしチェーンの具合も悪くない感じだけど漕ぐのが妙に重い。とりわけ登り坂はしんどい。しかし徒歩よりは速い。1日300円です。遺跡巡りにどうぞ。

▲有年原・田中遺跡の復元された墳丘墓

はじめにやってきたのは有年原・田中遺跡。弥生時代後期の墳丘墓が復元整備されています。並べられている装飾器台・装飾壺セットはいかにも弥生時代らしい造形で良い仕事をしています。このセットが時とともに形を変えて岡山県あたりでは特殊器台・特殊壺セットになり、さらに古墳文化に取り込まれて円筒埴輪につながっていくのだという。

▲有年原・田中遺跡出土品、有年考古館

少し離れたところにある有年考古館では出土した実物を見ることができます。渦巻文に鋸歯文。やっぱり弥生時代のデザインといえばこれですね。縦三本の紐を並べたような装飾もある。壺と器台それぞれの形状も良いし、何よりそれら(文様と形状)の組み合わせのバランスがちょうどいい。これまでに弥生土器を見た数などたかが知れているけれど、その中から選ぶなら個人的にこの有年原・田中遺跡の器台・壺セットは一番好きです。

▲装飾器台の渦巻文拡大

有年には後期古墳もあり、続いてはそれを見に行きます。進まない自転車で向かい風に立ち向かい、さらに民家の軒先っぽいところを申し訳ない感じで通り抜けて(看板のとおりに進んだらそうなる)たどり着いたのは木虎谷きとらだに二号墳。

▲木虎谷二号墳

柵があって古墳に入ることはできないけれど、柵の前から古墳の石室を覗き見ることができます。そしてこの古墳の特徴である石棚があるのがわかる。石棚とは石室の中のいわば作り付けの棚のことで、「西日本、特に環瀬戸内海地域を中心としてまとまっ」ているというローカルな構造でもあります(1)。しかし棚としての使用だけでなく棺の覆いや石室の補強に使われたとも想定されていて(1)、木虎谷二号墳の石棚はその下の空間に棺を置けるような敷石があることから棺の覆いだったのだろうということです(2)。すべての古墳にあるわけではないのでなんらかの差別化の意図はあったんでしょうね。

▲木虎谷二号墳石室。真ん中に石棚が見える。

さらに進んで塚山古墳群。林の中に多数の円墳が残っている。調査も整備もほとんどされておらず、かといって積極的に破壊されてもいない、純粋に時の流れで朽ちていった遺跡の姿があります。下手に復元や整備をしてしまうときっと大事なものが失われてしまうだろうなと思える静謐な墓所。自然のままなので石室が崩れていたり、崩れそうになっていたりもする。でもできればこのまま残っていてほしい。

▲塚山古墳群

▲塚山6号墳石室。間仕切りがある。

▲石室の天井石が落ちそう

〔参考文献〕
(1)藏冨士 寛(2002)「石棚考―九州における横穴式石室内棚状施設の成立と展開―」日本考古学 第14号
(2)赤穂市史編さん専門委員(編)(1981)『赤穂市史 第一巻』兵庫県赤穂市

向こうが見える古墳

休日のぶらぶら。西日本まで来ました。

▲見野古墳群の眺め

東姫路で自転車を借りて20分ほど走ったところにあるこちらは見野古墳群。山の麓の斜面にいくつもの古墳が並んでいた。過去形なのは、今やほとんど墳丘が残っていないことによる。でもそれはそれで現代的には面白い光景ではあります。

▲3号墳

それにしても姫路あたりまでくると瀬戸内の風景になります。ポコポコとした山がいくつもあり、その間に平野が広がっている。古墳群はその平野を見下ろす眺めの良い場所にあります。古墳時代的に住みやすそうな気がする眺め。

▲4号墳

一番よく残っている4号墳。奥壁も天井石も大きくて立派です。

▲4号墳の石室

6号墳、通称夫婦塚は石室がふたつある双室墳であり、かつどちらも奥壁が抜けて向こう側が見えるという、知りうる限り他に類を見ない古墳。メガネっぽい。

▲6号墳

▲6号墳の石室のうちのひとつ。向こうが見える

3号墳も奥壁が抜けて筒になっている。両側から入れて便利。

▲3号墳

他に「姫路の石舞台」と呼ばれる巨石を組んだ石室があるらしいです。(後日知った)

古墳群は7世紀の築造。日本がひとつの国になりつつある時代です。みんな明るい未来を思い描いてこの土地を開発していたんでしょうか。そうだといいなあと思う。

伊那谷の古墳

今回は伊那谷です。長野県南部にある南北に長い谷。

地理院地図による、伊那谷の写真

伊那谷古墳時代中頃の5世紀に飯田市付近でなんかいきなり前方後円墳がたくさん造られるようになり、にわかにおもしろい感じになります。当時の最先端産業である馬の飼育・繁殖が大々的に始まったのと、日本の東西を結ぶ道「古東山道」が伊那谷を通るルートで成立したらしい、というのがその理由とのことで(1)(2)、今で言うと高速道路が通って工業団地ができて町が発展した、みたいな感じかもしれません。

以下は6年ほど前に見に行った飯田古墳群の写真。形がよく残っていてよろしいです。

▲飯沼天神塚(雲彩寺)古墳、2017年撮影

▲御射山獅子塚古墳、2017年撮影

それで、飯田のあたり(下伊那)の様子はわかったので、今回は伊那谷の北のほう(上伊那)がどうだったのかを見に行ってきました。

上伊那は古墳時代前期はもとより、中期以後になっても飯田ほどのたくさんの前方後円墳が造られるということはなかったようですが、かといって皆無でもない。

▲老松場古墳群1号墳

まず、近年の発掘で詳しいことが明らかになってきた老松場古墳群(3)天竜川左岸側の崖上にあり、天竜川の低地を挟んで木曽山脈を見渡せて眺めが良いです。古墳群のうち1号墳は5世紀初頭の前方後円墳。5世紀初頭ということは、おそらく伊那谷で馬産は始まっておらず、幹線としての古東山道も成立していないはず。まだこのあたりはきっと静かな田舎で、古墳の主はそんな田舎の村長さんみたいな人だったのではないか、という気がします。

▲老松場古墳群7号墳

7号墳は円墳。その他にも小さめの古墳が並んでいます。2号墳は5世紀後半との情報があり(4)、とすると馬産が始まり伊那谷がにぎやかになり始めた頃です。この頃の村人は崖下の道を馬が行き交い始めたのを見て驚いたかもしれないし、「そのデカい鹿みたいなやつは何だ?」と問いかけたかもしれない。

▲老松場古墳群2号墳は平べったい。林の奥に7号墳が見える。

続いては松島王墓古墳。こちらは少し北の箕輪町にあり、6世紀の前方後円墳です。林の中に墳丘がよく残っていて、後期古墳らしくやや急な土盛がわかります。写真ではわかりにくいけど、くびれ部にある造出の存在感が結構ある。

▲松島王墓古墳を横から

▲松島王墓古墳、斜めから

6世紀というと老松場古墳群1・2号墳よりは後で、飯田古墳群と同じ頃です。実際、飯田古墳群にあるのと似た埴輪が出土しているそうで、連絡を取り合うような関係性はあったようです。古東山道を行き交う人々の中継拠点を運営する代表者のような人のお墓、かもしれません(5)

という感じで、伊那谷の全体の様子がなんとなくわかってきたような気がします。

 

〔参考文献〕
(1)右島和夫(2019)「古墳時代における古東山道の成立と馬」『馬の考古学』雄山閣
(2)渋谷恵美子(2019)「伊那谷の古墳と馬飼い」前掲書
(3)関西大学文学部考古学研究室「老松場古墳群」https://wps.itc.kansai-u.ac.jp/ariku/2021/03/49/ (2024年1月13日閲覧)
(4)中日新聞「埋葬と埋納の施設確認、伊那・老松場古墳群2号墳の発掘 9月2日に調査体験教室」https://www.chunichi.co.jp/article/758253 (2024年1月13日閲覧)
(5)箕輪町郷土博物館(編)「松島王墓を考える」https://www.town.minowa.lg.jp/html/pageview_matsushima/book/seo/0001.html (2024年1月13日閲覧)

衛星画像は国土地理院https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.htmlデータソース:Landsat8画像(GSI,TSIC,GEO Grid/AIST), Landsat8画像(courtesy of the U.S. Geological Survey), 海底地形(GEBCO)

能登半島の真ん中あたり

今回の行き先マップ。能登半島の南半分くらいです。地図の真ん中に明確に断層があり、帯状の低地が半島を貫いている。ここが古墳時代には畿内と越後方面をつなぐ交通路として機能していたらしいという、そのことだけでも興味が湧いてきませんか。湧いてきますね。

もう少し細かく見ていくと、この低地部分のうち西側のいくらかについては、かつては邑知潟という大きな湖になっていました(今も痕跡程度に残っている)。また地図の右下にある氷見には十二町潟または布勢水海という内海があった。まだ馬や車がなく道も整備されていない古墳時代には効率のいい物資輸送手段といえば舟であり、手漕ぎの舟で安全かつ効率的に移動しようとすると内海や川をたどるようなルートをえらぶのがよく、能登半島の北の日本海をまわるよりも、(部分的に陸行が必要だけど)邑知平野を横断するのがよかった、と理解しています。

こういう内海や潟が古墳時代には各地に点在していて、舟を停泊させる港として交通の要衝になっていたり、人々の生活の拠点になっていたりしたようです。古墳時代の風景を想像するには良い場所なのです。
というわけで能登半島の南半分くらいをうろうろしてみた。

雨の宮1号墳。前方後方墳。前方部からの斜めビューがかっこいい。

1号墳の前方部から後方部を見る。どっしりとした重量感。

雨の宮2号墳。前方後円墳。5号墳の上から2号墳後円部を見る。手前に5号墳の埋葬施設跡。

まず最初にやってきたのは雨の宮古墳群。たくさんの古墳が群がっていて、中心になるのは前方後方墳の1号墳と前方後円墳の2号墳。どちらも復原整備されていて、かなりきれいな姿になっています。

1号墳のくびれ部から邑知平野を見下ろす。

そしてまたどちらの古墳からも邑知平野を眺めることができます。このあたりは邑知潟よりも上流で、分水界が近い。勝手に想像すると、邑知潟から川を遡ってきてもうこれ以上は遡れない、というところで荷物をおろして陸行に切り替える、そこに人が集まる拠点があり、集まった人に見せつけられるような古墳を造ったのでありましょうね。1号墳は形状や出土品から越後(新潟県)方面とのつながりが強いと想定されるようで、広域的に交流のあった偉い人の墓であるらしい。

院内勅使塚古墳。方墳。石室に入れる。

院内勅使塚古墳の石室内から外を見る。天井石が大きい。

東に進んで院内勅使塚古墳。こちらは時代的にはずっと後の古墳時代終末期、古墳の形はこの時期流行りの方墳になり、大きな石材を使った横穴式石室が開いている。写真では撮りきれなかったけれど、天井石の大きさはなかなかの迫力です。これを運ぶには相応の権力&マンパワーが必要ですね。雨の宮1号墳からは300年ほど後に造られたものだけど、その頃になっても邑知平野は繁盛していたらしいと想像できます。

須曽蝦夷穴古墳。石室がふたつある。

さらに七尾湾を渡り、能登島へ。須曽蝦夷穴古墳。これも終末期の方墳だけど、院内勅使塚とは様子が結構違います。石室が2つある。さらに石室は板石を積み上げて天井はドーム状になっていて異国風で、高句麗(当時の韓半島北部)から来た人たちの墓ではないかという説がある。一方で、日本書紀にある粛慎との戦いで戦死した能登臣馬身龍のとのおみまむたつの墓という説もあり、その場合は地元の武将ということになります。被葬者像にずいぶん振れ幅があるような。ともあれいずれにしても「遠くへ行った人」という点では共通であり、また七尾湾の南側からぐるりと見える位置にあることからすると、海に関わって権力を持ったか尊崇されるような人の墓なのでしょうね。

桜谷1号墳の側面。前方後方墳

さらに南東へ。思うに東日本との交流を目指して西からやってきた人々は、邑知平野を横断し、再び舟で七尾湾に漕ぎ出し、さらに東へ向かうときにいちど氷見に寄港したのではなかろうか。その、おそらく重要拠点であるかもしれない十二潟沿岸の古墳。

桜谷2号墳の側面。帆立貝形古墳。

2号墳から1号墳越しに十二潟方面を見る。

まずは桜谷古墳群。内海の十二潟と富山湾をつなぐ水路(今はもう無いので想定上の)に姿を見せるように築かれたのであろうという。現に、かつて内海だっただろう平野はどちらの古墳からもよく見えます。古墳がひな壇状に築かれてるんですよね。墳丘はかなり削られてしまっているけれど、それぞれ前方後方墳と帆立貝形古墳の面影は残している。

柳田布尾山古墳は前方後方墳。前方部からの斜めビュー。

柳田布尾山古墳の前方部から後方部を見る。山を背負って神秘的な眺め。

同じく内海に面したところにある柳田布尾山古墳。こちらも前方後方墳。桜谷1号墳と共通設計で、同盟関係にあったのではないかという。まあ同じ内海に面しているしお隣さん同士、あんまりいがみ合ったりはしてほしくない。この同盟関係は富山の王塚古墳も同様らしく、富山湾沿岸にそういう商売仲間のグループみたいのがあったのかもしれない

 

〔参考文献〕
伊藤雅文(2008)『古墳時代の王権と地域社会』学生社
小黒智久(2023)『コシの古墳と地域社会』雄山閣

地図データは地理院地図を使用して作成

手賀沼と水神山古墳

手賀沼。現代に残った香取海の欠片です。古代の巨大な水域・香取海については以下の霞ヶ浦河川事務所のウェブサイトの説明などをどうぞ。

www.ktr.mlit.go.jp

手賀沼に接する台地にある水神山古墳に行ってみた。今もきれいに前方後円形が残っていて、はっきりしたくびれもあり、さほど大きくはないけれど見た目がよろしいです。

▲前方部(左)から後円部(右)

▲住宅の間から後円部が見えている

香取海が存在していた時代には手賀沼から流山あたりを通って江戸川~東京湾へ至る交通路が想定されるそうで(†)、この場所は香取海東京湾、2つの大きな水上交通路が交わる要所だったかもしれない。要所であればこそ前方後円墳に葬られる人も、前方後円墳を造る人も、ここに暮らしていたわけですね。

手賀沼に浮かぶヨット

現代の手賀沼は水上交通というほどのものはもはやないけれど、ヨットに乗っている人はいる。当時もこんな感じで船が行き交っていただろうか。

 

〔参考文献〕
†山田俊輔(2015)「「常総の内海」をめぐる古墳時代中期社会の研究」『考古学論攷II』千葉大学文学部考古学研究室