古墳前バス停

湖西線比叡山坂本駅から江若バスに乗り、5分ほど。たどりついたのは……

比叡山坂本駅前のバス乗り場

▲バスの車内にて。次は古墳前。

▲古墳前バス停で下車。

古墳前バス停。ちなみにこの道の名前は古墳通というらしい。

きっとすごく大きな古墳とか、考古学的に貴重な古墳とか、そうでなくてもこの地の歴史を語る上で重要な古墳があるのではないかと期待が膨らむ名前です。がしかし、実際のところそういうわけでもない。(古墳があるのは本当)

▲平石古墳

バス停近くの階段を登ったところに平石古墳という古墳があります。隣が公園になっていて、そこからは二段築成のそこそこ大きな円墳っぽく見えるけれども、現地の説明看板によると8×15mの方墳とのこと。たぶんこの丘じたいは古墳ではなく、てっぺんの囲いがある部分だけが古墳なのだろうと思います。時期的にはすでに古墳時代が終わり飛鳥時代に入ってからの終末期古墳。埋葬施設は切石積の横口式石槨。切石積はいいですね。見られるならぜひ見たいけど公開はしていないようです。

図書館で発掘調査報告書を探してみたけど見つからず。探し足りないだけかもしれないけれど、あるいは発行されていないかもしれない。多少の言及がなされている本はあり(田中2008)、被葬者について「新たな中央・地方官制の中に組み込まれたある種の地方官であったのではないか」と推測しています。

▲高峰1号墳(中央)と2号墳(左端)

平石古墳の他にも、バス停から少し先に歩くと高峰1号墳・2号墳という2基の古墳が公園の中にあります。こちらも発掘調査報告書は見つからず。『大津市史』に少しの記述がありましたが情報量は現地の看板とさほどの差はない。古墳時代中期の古墳群であり、1号墳は45mの前方後円墳、2号墳は18mの円墳。すでに墳丘が削れてしまっていたのを復元したようです。したがって写真の墳丘はほぼ現代的構築物であって往時の姿をどの程度残せているかは不明。

というわけで古墳前バス停の「古墳」とは、めっちゃローカルな小古墳なのでありました。まあバス停というのはすごいローカルなランドマークの名前がついていたりするものですね。「神社前」とか「小学校前」とかいうバス停があったとしたら、何の変哲もない神社や小学校の前にあると考えるのが普通ですね。「古墳」というキーワードがあったので無駄に想像を膨らませてしまった。これはいけません。「古墳前」バス停の前には何の変哲もない地元の古墳があった。それでじゅうぶんというものです。

 

〔参考文献〕
田中勝広(2008)『古墳と寺院―琵琶湖をめぐる古代王権―』サンライズ出版
大津市役所(編)(1984)『新修大津市史』第7巻

酒のうまい土地

はあ。酒がうまい。うまいですなあ。ハッハッハ。

信州亀齢というお酒です。ほのかにいい香りがして、さらっとして、そして甘露であり、旨い水でもある。良いです。

どうしたのかというと、新幹線で長野県は上田に行って買ってきました。とはいえ酒を買うために行ったわけではない。しかれどもそのつもりが全く無かったとも言い切れない。

▲信州亀齢、岡崎酒造

上田は城下町であり、城跡がある。あと、水が良いらしく、街なかに湧き水がある。水が良いせいか(という理由付けは実はあまり好きでないのだけれど)お酒は旨いし、駅前の喫茶店はおいしいブレンドが420円で飲める。その次に入った喫茶店はチーズケーキがおいしいし、昼食後に入ったワインの店では地元のシードルがうまい。駅前のブルワリーで飲んだビールも良いです。つまり飲むことに関してこの街はなんだかとても良い感じです。

柳町、上田

ひととおり飲んで満足してから古墳を見に行きました。このあたりは古代には信濃国国分寺が置かれたような中心的な土地でありながら、それ以前の古墳時代にはあまり目立った古墳がないです。それゆえ小さな古墳を見て回ることになる。

事前の知識として確認しておくと、古墳の平面形は、方墳〔四角形〕→円墳〔円形〕→前方後方墳〔四角形+四角形〕→前方後円墳〔四角形+円形〕の順にランクが高くなるとされていて、サイズも大きいほどランクが高いということになっている(1)。日本最大の古墳が全長500m超であることを念頭に置くと大きさもイメージできます。

上田の有力な古墳を年代順に見ると、地域で最初の古墳が4世紀から5世紀の大蔵京古墳(長辺35mの方墳)、次も方墳の中曽根親王塚、そして帆立貝形(前方後円墳のなりぞこないみたいなやつ)で全長50mの王子塚古墳が造られ、ようやく6世紀になって前方後円墳の二子塚古墳ですが全長は49mとあまり大きくない。形の変遷から「グレードを上げて」いったとされるけれど(2)(3)、それとて小さい部類です。その後はまた円墳に戻り、塚原穴1号墳、他田塚古墳、皇子塚古墳などと続く。

▲大蔵京古墳。わかりにくいけど真ん中の盛り上がりが墳丘。

▲王子塚古墳。真ん中やや左下の部分が墳丘。

▲二子塚古墳。削れてしまって形はよくわからない。

▲二子塚古墳のオブジェ

▲塚原穴1号墳

▲他田塚古墳。塚原穴1号墳とともに「いにしえの丘古代公園」の中にある。

▲皇子塚古墳

まあ、そんな感じで古墳はさほど大きくはないですが、それでありながら史跡として整備もされていて見栄えは良いです。酒のうまい上田の礎を築いた古墳時代人の皆様に思いを馳せつつ、別所温泉に浸かって一日を終える。

 

〔参考文献〕
(1)都出比呂志(2011)『古代国家はいつ成立したか』岩波新書 ほか
(2)小林秀夫(2006)「千曲川流域における古墳の動向―5世紀代の古墳を中心として―」『「シナノ」の王墓の考古学』雄山閣
(3)上田市誌編さん委員会(編)(2000)『上田市誌 歴史編(2) 上田の弥生・古墳時代上田市

水玉模様の壺

青梅へ行った。暇な三連休なので一日くらい外出しようと思い、郷土博物館でやっている古墳時代の遺跡の展覧会を見に行ったのである。
霞台遺跡。古墳時代前期の集落の跡。結構大きい遺跡のようだけれど、青梅市内でその時期の古墳はいまのところ見つかっていなさそうで、この集落の偉い人々がどこに墓を造ったのか不明です。
ところで古墳時代の偉い人ってみんな古墳を造ったのだろうか。古墳って目立つし全国に散らばってるのでみんながみんなそうしていたように考えてしまうけれど、国が統一されていない段階でそこまで均質な文化ではなかったかもしれない。まあ、わかんないですけど。以上余談。
展覧会は有名な出土品があるわけではなく出品数も少ないのですが、なかなかいい仕事が見られます。第一にはこの壺。頸部に赤彩の水玉模様がある。水玉!

▲口部から頸部にかけて赤い水玉模様がある。

▲同じ壺を真横から。

最近ちょうど松本で草間彌生の作品を見たばかりでもあり、個人的に水玉はいい感じなのである。しかもロクロが無い時代の作であるためややいびつな丸っこい形。まるで草間彌生のカボチャではないですか。古墳時代人、なかなかモダンでかわいいデザインができるのである。

松本市美術館草間彌生 版画の世界」展の撮影可能ゾーンにて、カボチャ。

ちなみに水玉模様自体はこの遺跡に限った話ではなく、埴輪ではいくつかあります。実際に自分で見たものは保渡田八幡塚古墳にある鹿形埴輪(復元)だけだが、少し調べたところ栃木県の甲塚古墳出土機織形埴輪は水玉模様で復元されているし、福島県の原山一号墳出土埴輪の帽子にも水玉模様があるようだ。ただ壺に彩色の水玉模様があるのは他に見つからなかった。この水玉壺は結構珍品だったりしないだろうか。少なくとも優品ではあると思う。

▲保渡田八幡塚古墳に復元されている埴輪群像。最後尾の鹿に赤い水玉模様がある。

なお、水玉壺以外にも下膨れの壺や、まるっとした壺など、個人的な好みのツボをほどよくつつくような品が出品されていました。無料で入れる小規模な展覧会もあなどれない。

▲ほどよい下膨れの壺。



木曽馬、松本平

木曽馬を見に行った。なぜ木曽馬かというと、頭が大きくて足が短い中型馬という特徴が古墳時代の馬に似ているらしく(1)、また日本在来種だから現に古墳時代馬の血をいくらかでも引いている可能性は高く、実際に見たら古墳時代的雰囲気を感じられるだろうという考えがありました。
行き先は長野県の「木曽馬の里」。木曽福島から山を越えて行きます。途中までは雨は降っていなかったけれど、峠を越えたところで一気に本降りになってしまった。さわやかな高原の放牧地で木曽馬たちが楽しそうに駆け回っているような光景を期待していたので残念ではあるが(雨が降ると馬は外に出さないとのこと)厩舎の中で至近距離で馬を見ることができてこれはこれでよかったかもしれない。

▲福栄号

木曽馬はサラブレッドにくらべるとずんぐりしてもこもこしています。雨の日の厩舎の中が暇すぎるせいかやる気がない目をしている。のんびりして間の抜けた感じは埴輪馬にも似た雰囲気があり、当時の馬もこんなだったのかなあと思う。

▲明花号

帰りは木曽から鳥居峠を越え松本方面へ。いま国道19号になっているこの道=木曽路古墳時代にはまだ無く、開通したのは少し後の奈良時代8世紀(702-713年)のこと(2)。当時のルートは不明な点が多く、国道19号と同じ鳥居峠を通るとする説と、北回りで境峠から梓川に出て今のアルピコ交通上高地線に沿ったあたりを松本市方面に向かったとする説がある(3)。後者だと古墳的には話の繋がりがいいです。というのも、このルート上では木曽路が開通する少し前の7世紀後半頃から開発が本格化して集落ができ、8世紀にかけて古墳群が造られている(4)。土地の開発と道路の建造が連動していたのかもしれない。現代でも高速道路ができると同時に周辺が開発されたりしますね。

木曽路ルートの2説

上高地線(上図の「松本電鉄」)の線路近くにある、もしかしたら木曽路と関連するかもしれない(と勝手に想像している)安塚第6号古墳と秋葉原第1号古墳。

▲安塚第6号古墳

付近にはもっとたくさん古墳があったそうだけど、いま残っているのは2基だけになっている。どちらも墳丘は破壊されて石室の下半分だけになっていて、さらに秋葉原第1号古墳は移築復元されていて場所すら変わっています。しかしともかく残っているのはありがたいことです。こうやって見に行くことができる。

▲安塚第6号古墳、別角度から。

奈良時代に入っていることもあり、近畿ではすでに古墳が造られない時代である。しかし東国は古墳を築造し続けた人々もあり、この安塚・秋葉原古墳群もそれに列なる。ただし、当初は横穴式の古墳として造られたものが「ほどなく天井石がとりのぞかれ、」(4)火葬場として利用されるようになったらしい。古墳時代の終わり、という感じである。

秋葉原第1号古墳

この新開発の土地に集落や墓を造ったのはどういう人だったのか。端的に言うと、当時としては新しい農業技術を持ってどこか外部から来た人々だったらしい。それ以前には湧水や小さな川の周辺にしか田畑を作れなかった(のでこのあたりに集落はなかった)のが、新しい技術は川のない場所にも水を引くことができるようになった。そうして土地を切り開き、田畑を営み、集落を造った(4)

これらの人々がどこかから来たという「どこか」とはどこなのか。はっきりしないらしいけれど、古墳の石室の構造からすると少なくとも近隣ではないようです(4)。勝手な推測をすると、土木技術というところからの連想で、木曽路を造った一団が関わっていそうな気がする。全くの無根拠ではなく、木曽路を造ったのは『続日本紀』によると(2)隣の美濃国の人々だったようなのですが、安塚・秋葉原古墳群や近くの集落遺跡からは美濃国で造られた須恵器が見つかっていて、(4)なんらかの関連はあるかもしれない。

最後にふたつの博物館へ。
ひとつめは塩尻市立平出博物館。市内出土の土器のコレクションが多くて、特に縄文土器は点数が充実しています。

▲平出博物館の縄文土器。いいデザインである。

近くには平出遺跡という縄文時代から平安時代にかけての大きな遺跡があり、各時代の住居が復元されている。復元住居だけなら各地にあるけど、高床倉庫に入れるのは初めて見た。古墳時代人の気分になれます。

▲復元高床倉庫。

▲高床倉庫の内部

ふたつめは松本市立考古博物館。こちらも縄文土器が充実している。それから、市内の弘法山古墳出土品が揃っている。壺がいい形してます。下膨れのぽってりした感じがとてもよいです。

弘法山古墳出土の壺。

〔参考文献〕
(1)丸山真史、覚張隆史(2019)「動物考古学による古墳時代のウマ研究」『馬の考古学』雄山閣
(2)青木和夫ほか(校注)(1989)『新日本古典文学大系 12 続日本紀1』岩波書店
(3)山田富久ほか(2020)「「木曽古道」の経路と地形」『第29回調査・設計・施工技術報告会 論文集』地盤工学会中部支部
(4)松本市(編)(1996)『松本市史 第二巻 歴史編1 原史・古代・中世』松本市

会津の古墳

浅草から東武伊勢崎線日光線鬼怒川線野岩鉄道会津鉄道・JR磐越西線を乗り継いで会津若松・喜多方までを往復できる「ゆったり会津 東武フリーパス」という切符があります。鉄道に興味がない人からすると謎ルートかもしれない。普通は新幹線で郡山乗り換えにする(乗換案内ではそれが出る)のに対してこの切符のルートはもちろん新幹線ではないし、北半分は単線のローカル線なのでスピードも出さない。結果、時間がかかる。鉄道に乗ること自体を楽しまない人なら聞いただけで却下しそうな気がする。ただし浅草から特急リバティに乗れば、途中1回乗り換えるだけで会津若松まで行ける。乗り換え1回という点では新幹線経由と同じだし、リバティの座席はなかなか良いので時間以外は互角と言ってもいいかもしれない。ゆっくり旅をするならばこちらもじゅうぶん選択肢になるはず。

会津田島駅にてリバティを降りて乗り換え。

そうして、この裏ルートで会津に行った。やることは主には古墳巡りである。ただし巡るには腹が減ったので最初は喜多方でラーメン屋に行きます。

会津田島駅にて乗り換えた会津鉄道の列車。

目当ての店があったわけではなく、それにだいたいどこでも水準以上のものが出るだろうから、適当な店に入ろうと思っていた。一応、坂内食堂くらいは知っていたので込んでいなければそこで食べようとも考えていたけれど、行ってみると噂通りの行列ができていた。というわけでその先にある別の店で食べた。そして目論見通り水準以上の味だった。自宅の周辺にある「評判の店」などと比べても普通においしい。1杯を食べ終わったときに味に飽きていない。最後までおいしいのである。近所の常連さんらしい人が何人かいて店主と話していた。喜多方の人はおいしいものを気軽に食べられてうらやましいと思う。

▲喜多方、坂内食堂のある通り。行列ができている。

食後、古墳へ行く。まずは亀ヶ森古墳・鎮守森古墳という二つ並びの古墳です。車で走りながら周辺の様子を見ると、微高地の上に村と古墳がある。この村は道が入り組んでいて、用水路も張り巡らされている。雰囲気としては環濠集落にも似ているけれども、少し調べた限りでは環濠という話は出てこなかった。ただ、亀ヶ森古墳の墳丘が中世には館として使われたとのことで、村の構造ともなにか関係があるのかもしれない。そんなことを踏まえてあくまでも雰囲気の話とすると、中世の村落という感じがしてなかなか良い。

▲亀ヶ森古墳のサイドビュー。

亀ヶ森古墳は全長127m(1)で県内最大の前方後円墳である。周囲は周濠に囲まれていて、現状は原っぱになっている。墳丘の上には稲荷神社と観音堂がある。前方部は墓になっていて全体としては結構削られているようです。

▲鎮守森古墳のサイドビュー。木の隙間からなめらかな形がわかる。

一方の鎮守森古墳は亀ヶ森古墳からほとんど隣接するような距離にある全長56mの前方後方墳(1)築造時期は亀ヶ森古墳よりも少し後が想定されるとのこと。こちらのほうが残りは良いように見える。後方部から前方部を見下ろしたときのくびれ具合とか、北側から見たサイドビューなどは、前期古墳らしいきれいなプロポーションです。木がなければもっときれいに見えるだろうなと思う反面、木が茂っているのが鎮守森の名にふさわしく(上に八幡神社がある)これはこれで良い風景である。

▲鎮守森古墳、少し離れたところから。

続いては少し南へ車で移動。杵ガ森古墳。削られてしまっていてかなり平べったくなっているけれど、とりあえず前方後円形はわかる。造られたのは亀ヶ森古墳よりも古く、古墳時代前期前半、会津ではかなり初期段階に近い。あたりは弥生時代以来の古式ゆかしいお墓であるところの方形周溝墓に囲まれていて、古墳時代的には古風な遺跡である。(まとめて稲荷塚遺跡という)

▲杵ガ森古墳サイドビュー。左が後円部、右が前方部。

さらに杵ガ森古墳から徒歩5分くらいで臼ガ森古墳がある。杵と臼でセットなのだ。見た目は円墳っぽいけど実際は全長約50mの前方後円墳だったとのこと。杵ガ森古墳と同じく古墳時代前期に造られたようだ。(2)

▲臼ガ森古墳。鳥居の背後に後円部の盛り上がりがある。

次は、会津で一番有名であろう会津大塚山古墳です。現代的な霊園の中にある、全長114mの前方後円墳(3)木が生い茂っていて少なくとも夏場は全体像を見ることができないが、墳丘の上は木が少なくて見通しがよく、大きさを感じることはできる。くびれ部の横に広い張り出しがあるということだけど、事前情報なしで行ったため気づかないまま帰ってきてしまった。古墳には造出というちょっとした出っ張りがくっついていることがあるが、図を見た感じではそれよりもずっと大きい。新潟市の山谷古墳にも同じような構造があり、関連があるかもしれないとのこと。(2)

会津大塚山古墳の前方部から後円部を見る。

▲現地の案内図。図中、中央やや下の平らな部分が張り出し部。


会津大塚山古墳が有名なのは出土した三角縁神獣鏡による。三角縁神獣鏡がなんで注目されるのかというと、当時としては貴重品で倭国の中枢が政治的に利用していたと考えられているためです。

配布・授受をつうじて諸地域の有力集団と関係を結び、そうした諸集団を序列づけようとする畿内中枢勢力の意図があった。(4)

なのでその分布や形式を研究することで、

中央政権の所在地や安定度を、地方の政治動向を、……年代を、身分を、対立する政治勢力を、……探る物差しとして(5)

役に立つわけです。この鏡があるということは、当時の会津倭国の中央政権とある程度強い関係を持っていたらしいという予想ができる。
しかし、そういうのを抜きにして単にデザインだけ見ても銅鏡というのは結構面白いです。鋸歯文・唐草文、同心円、神獣とか。

会津大塚山古墳出土三角縁神獣鏡福島県立博物館所蔵。

ところでせっかく古墳を見たのでそれを造ったのがどういう人々だったのかを確認しておきたい。会津盆地は古墳時代的にはわりと辺境で、山を越えた隣の山形県は古墳の分布の北限にあたる。その先にあるのは稲作農耕をしない狩猟採集文化である。少し後の時代のことになるけれども、国造制という制度が敷かれて日本全国が一律に統制されるようになったときにも会津はその制度の中に入っていなかったらしい。(6)
そんな古墳時代的田舎に当時最先端である前方後円墳(それも結構大きい)を造る技術や、三角縁神獣鏡がもたらされたのはなぜなのか。気になる。気になりませんか。

物の本によると、弥生時代の終わり頃から古墳時代の初期にかけて、北陸方面から移住してきた人が多かったらしい。例えば土器は北陸起源のものが増えてくる。現地人と新しい文化を持ってきた移住者が共存していたようです。(7)古墳の形にしても、上に書いたように会津大塚山古墳は新潟との関連がありそうだ。

▲稲荷塚遺跡出土土師器。口の部分が直線的に広がるのが北陸様式らしい。

そういう状況で会津盆地の中はおおむね3つの地区でまとまりをつくるようになる。そのうちの一つが西部(杵ガ森や亀ヶ森など)、また一つが南東部(会津大塚山など)のグループである。3つの地区はゆるやかに連合して会津としてのまとまりももっていた。(2)
倭の中央政権としては辺境とはいえ人口が増えて成長してきた会津と友好関係を結んで勢力を拡大したい。会津連合としては最先端の物資を手に入れたい。という利害の一致で大きな古墳を造る技術や三角縁神獣鏡会津にもたらされた。(2)
しかし今日見たような大きな古墳(古墳時代前期のもの)が一通り造られたあと、古墳時代中期になるとほとんど古墳が造られなくなります。倭政権の方針転換で辺境重視をやめたのではないかとのこと。(2)会津はまたただの辺境に戻り、後には国造制の範囲外になるなど辺境でありつづけた。

▲御薬園にて。

旅の最後に会津若松の御薬園に行きました。会津藩松平氏の庭園である。以前、庭は音を感じるのがいいみたいなことを書いたけど、御薬園もまた音がいいです。歩いていて水の流れる音が聞こえる。少し歩くと聞こえなくなる。また次の水音が聞こえてくる。これによって場面転換がなされる。木の配置によって音の反響がコントロールされているような気もする。特に茶室に向かう道は、はじめは旅の道中のような心細い感じから始まるけれど、橋を渡る手前で風景が急に開けて、水の音は波のようになり、海岸に出たような感覚になる。夏に行ったからか蝉の声も音を構成していて良かった。いい庭です。

トロッコ列車の車窓。

帰りは会津鉄道トロッコ列車。思いのほか良いです。爽快である。

 

〔参考文献〕

(1)現地の案内看板による。
(2)菊池芳朗(2010)『古墳時代史の展開と東北社会』大阪大学出版会
(3)現地の案内看板による。
(4)下垣仁志(2019)「古墳と政治秩序」『シリーズ古代史をひらく 前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか』岩波書店
(5)都出比呂志(2011)『古代国家はいつ成立したか』岩波新書
(6)篠川賢(2021)『国造――大和政権と地方豪族』中公新書
(7)辻秀人(2006)『シリーズ「遺跡を学ぶ」029 東北古墳研究の原点・会津大塚山古墳』新泉社

青塚古墳と壺と

青塚古墳。南東側から。

数年前にたどり着けなかった青塚古墳についにたどり着いた。地上で見ても地図で見ても美しき前方後円墳。愛知県下2番目の大きさにしてきれいに復元整備もされているのでじつに見栄えがします。

地理院地図(陰影起伏図)による青塚古墳。

美しさについて言うと、古墳時代前期の古墳らしく前方部があまり大きくなく墳丘の傾斜もなだらかで、全体としてはゆったりとした存在感がある。墳丘の裾と各段(三段築成)の平坦面に赤彩の壺形埴輪がぐるりと巡っていて、草の緑と壺の赤が対照的でもある。

▲墳裾の壺形埴輪(復元)

ただし築造時は全面が葺石で覆われていたそうなので「草の緑」は築造した古墳時代人の意図したところではないかもしれない。あと、色弱者にはこの緑と赤の対照はほとんど意味をなさないだろうとも思う。(とすると築造時の設計のほうが現状よりもユニバーサルな美かも)

▲墳裾以外は板で復元(?)されている。

個人的には壺型埴輪は好きである。というのも丸っこい焼物が好きだからです。特に下膨れやふにゃっとした感じが良い(そのへんは以前にも書いた)。あるいは古伊賀の破袋などは初めて見たときによだれが出そうだった。

〔破袋については五島美術館ウェブサイトからコレクション→茶道具→水指と進めば画像を見られます。が、やはり実物を見るのが良いです〕

ただし壺形埴輪が全体に並べられている古墳というのはあまり一般的ではないらしい。そういえばそうで、復元された古墳にはたいてい円筒埴輪が並んでいてその隙間とかにたまに壺形埴輪もある、みたいな印象です。壺形埴輪だけをぐるりと巡らすようなのは東海から東日本の古墳が主だとか。したがってこの古墳も遠目には全国一律規格の前方後円墳のようでいてきちんとローカル色が出ているのである。

▲西側から。

しかし前方部にある方形壇(写真では少しだけ盛り上がっているのがわかる)という区画だけは円筒埴輪が並んでいて、

鏃形石製品がともなうなど、同時期の畿内の首長墳と同じ祭祀が執りおこなわれた

(藤井,2022)

という、部分的に当時の中央政権から取り入れた(?)要素もある。最先端の流行に乗ってオシャレしてみたのか、あるいは政治的バランスを取った結果なのか。引用文献は後者をとるようです。

▲ガイダンス施設「まほらの館」に展示されている埴輪。

古墳の立地について。ほとんどまっ平らな場所にあるようでいて、じつは台地の縁の部分にある。陰影起伏図の北西部分にある線が段丘崖です。用水路が逆行できるほど低い。

段丘崖の下は犬山扇状地。つまり木曽川が作った扇状地であり、現代では木曽川本流はずっと北の方を流れていて枝流も整理されているけれども、はるか昔の全く治水などされていなかった頃は古墳のすぐ下まで枝流が流れていたことも、もしかするとあるかもしれない。そうであればこの青塚古墳は木曽川水系(&伊勢湾岸)に接続することになり、水上交通による各地との交流という、古墳好きにとってはちょっとばかり面白い展開になる。ここらへんは夢想のようなものですが。

 

〔参考文献〕
藤井康隆(2022)『濃尾地方の古墳時代東京堂出版
田中裕(2005)「壺形埴輪と東関東の前期古墳」『千葉県文化財センター研究紀要24 ―30周年記念論集―』千葉県文化財センター

壁画と冠

年2回の虎塚古墳の壁画公開にいつか行こうと思っていた。のだけど、どういうわけかそのタイミングで仕事や用事にぶつかることが多くて、そうして行けないでいるうちに感染症が流行りだして公開中止になったり色々あって余計に行けなくなってしまっていた。このままだと機会を逃し続けて結局行かなかったみたいなことになりそうなので、壁画の本物は見られないにしてもとりあえず行ってみることにする。レプリカだけでも見れればいい。

5月初旬。勝田駅がごった返していて何事かと思って調べたら、近くにあるひたちなか海浜公園のネモフィラが見頃なのだそうだ。ずいぶん映(ば)えるらしいですね。とはいえ古墳を見に行くのだ。直行バスへ向かう列とは別れてひたちなか海浜鉄道に乗る。バスでなく鉄道でネモフィラを見に行く人もいくらかいるらしく、車内はほぼ満席だった。中根駅で下車、田植えが始まった田んぼを見つつ古墳へ向かう。

中根駅のあたり。

古墳は想像よりも大きくて形もきちんと残っていた。前方後円墳。石室の入口はむろん厳重に施錠されている。太陽光が林の新緑を通して差し込んで、景色が明るい緑色に染まる。古墳を見るなら冬、というのはたまに聞くしその通りだと思う(木の葉や下草が無くて視界が良い)のだが、新緑の頃もなかなかですね。景色としては新緑のほうがいい。

虎塚古墳、前方部斜め後ろから。

▲石室入口。

古墳の隣に埋蔵文化財センターがあり石室のレプリカが展示されている。実物は公開日に行ったとしても撮影禁止なので、自由に見られるこちらのほうが良い、と言えなくもない。現に結構ありがたい。

▲石室内部(複製)。

何が描いてあるのかぱっと見ではよくわからないけど、奥壁の左下の縦棒が並んでいるのは槍か鉾、その右は矢を入れる靫、手の甲を保護する鞆、右下に大刀が三口ある(1)。しかし正面の円環とかその上の砂時計みたいなやつはよくわからないらしい。上の方にあるギザギザは弥生時代以来のおなじみデザイン、三角文(鋸歯文:魔除け)。

この古墳時代以前のプリミティブな(といえばかっこいいが、ありていにいえば下手な)絵は良いですね。少し時代が下って高松塚とかキトラ古墳の壁画となると上手だし綺麗だけど、現代の我々と地続きな感じが出てくる。地続き感のない、遠く離れた感じが良い。

ところでよく考えてみると、古墳時代人はなんでこんなに絵が下手なのだろう。写実的に描く技法が未発見だというのはあるにしても、それ以前に下書きの線と塗りがずれていたり(左の円環)、三角文もフリーハンドで適当に描いていたりして、現代人の感覚でいうところの「きちんと」は描けていない。

しかしおそらく古墳時代人が美的に劣っているということはなく、例えば焼き物は上手だったりする。そもそも縄文時代からずっと粘土細工は上手いのだ。弥生時代人は青銅器を精巧に作るし。古墳時代は鉄器も。古墳や住居などの建造物も造れる。それなのに絵は棒人間のレベルからあまり進歩していないように見える。どうも三次元の造形は上手くて、二次元に写し取るのが不得手なのかもしれない。美術の発達過程でそういう必然があったりするのだろうか。そのあたりは美術史の研究がありそうな気がする。興味はあるけど調べられていない。

1500年の時を経て倭人は(というと主語が大きすぎるか)二次元表現に熱狂する民になった。時の流れは面白いものです。

▲立体造形は古来より上手い。縄文時代、上野原遺跡の水煙土器、山梨県立考古博物館。

今回のもう一つの目的は茨城県立歴史館で展示されている三昧塚古墳出土品を見ることでもあった。これもデザインに関係する。冠の造形が気になっていたのだ。

茨城県三昧塚古墳出土品 文化遺産オンライン

広帯二山式という形式の冠(2)で、その名の通り山が二つある。藤ノ木古墳出土の豪華なやつが有名だけどそれに比べると立体的な表現があまりなく、影絵のように馬の列が続く。この馬のデザインがかなりうまい具合にデフォルメされていて、その列が山を越え谷を越え(という意図かどうかはわからないが)進んでいる様子がなんかかわいい。古墳時代のデザインの中で好きなもののひとつ。

茨城県立歴史館に展示された実物。影絵のように透かしてみるとかわいい。

三昧塚古墳の墳丘のほうは6年前に行ったときの写真があった。霞ヶ浦の近くにきれいに復元されている。晴れた日のドライブにちょうどいいです。

▲三昧塚古墳、2016年。

〔参考文献〕

(1)稲田健一(2019)『シリーズ「遺跡を学ぶ」134 装飾古墳と海の交流 虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群』新泉社
(2)高田貫太(2021)『アクセサリーの考古学 倭と古代朝鮮の交渉史』吉川弘文館