置賜の古墳 4世紀から8世紀まで

今回は山形県南部の置賜地方の古墳を巡ってみました。地理的には周囲を山に囲まれた米沢盆地。温暖な現代では米どころです(そしてついでにいうとお酒がおいしい)が、寒冷だった古墳時代にはこのあたりでの米作りは大変だっただろうと思います。そういう気候的な都合もあり古墳・稲作文化の北限に近い。

▲米沢市内から吾妻山を見る

この地域に最初に古墳が造られたのは4世紀前葉のことで、近畿や関東での築造開始が3世紀中頃だとすると、干支一回り以上の時間をかけて古墳文化が伝わってきたことになります。そして4世紀中葉になり「地域一帯を統括する大型古墳」が造られるようになります[1]。そのひとつが盆地西部の川西町にある天神森古墳です。米坂線羽前小松駅から徒歩10分。

▲天神森古墳、木々に覆われている

全長75mの前方後方墳です。第一印象はとても平べったい。後方部の上に神社があるので、それの関係で削られているのかもしれないけれど、もともと平べったかった可能性もあるかなと思います。

▲天神森古墳の後方部墳頂、平らで広い

天神森古墳と同時期の古墳としては盆地南部の前方後方墳、宝領塚古墳があります(未訪問)。さらに少しだけ時間差があって4世紀後半に盆地北部に前方後円墳の稲荷森古墳が造られました。この3基の古墳の存在から、4世紀頃の米沢盆地は3つの有力な政治勢力が並び立つような状況だったと推測されます[2]

▲稲荷森古墳

稲荷森古墳は全長96mの前方後円墳。上記3つの古墳の中で最も大きく、ひとつだけ前方後円形ということから、米沢盆地では一歩抜きん出た存在だったのではないかとも思われます。もともと形がよく残っていたようですが、平成初期に整備されてきれいになっています。山形新幹線の赤湯駅から徒歩25分、ついでに赤湯温泉に入っていけばちょうどいい観光になります。

段築がちゃんとあるのも天神森古墳とは違うところ。一段目は丘陵の先端を削り出して造り、二段目と三段目は盛り土のようです。

▲稲荷森古墳の前方部から後円部を見る

墳丘からは米沢盆地の田んぼを見渡すことができます。この風景を見ると豊かな土地だなあという印象ですが、古墳時代にどうだったのかはわからない。

▲古墳の西側は田んぼが広がっている

そうして3つの大きな古墳が造られた後、5世紀になると古墳が築造されない時期がやってきます。これは米沢盆地に限ったことではなく、南東北から新潟県域までの広い範囲で同じように起きており、「政治的変動と連動した変化と考えるべき」とのこと[3]。その時期を挟んで5世紀後半になると再び古墳が築造されるようになります。そのひとつが盆地の東南部にある戸塚山古墳群。

▲奥羽本線の列車から見た戸塚山

……に行きたかったんですが、登山道の標識などはなく、草に覆われていて道を間違えそうだったので途中で引き返しました。しかしこの山にある古墳群は貴重でぜひ見ておきたいところでした。山頂の139号墳はその中で一番大きい54mの前方後円墳。そのとなりの137号墳からは埋葬された女性の骨が見つかり、置賜の女王と呼ばれているようです。重要な古墳です。

▲戸塚山に登ろうとして引き返したあたり

また盆地の西部に戻り、天神森古墳の近くの丘陵上にある下小松古墳群へ。ここは4世紀から6世紀まで造られ続けた古墳の群れ。天神森古墳(4世紀中葉)と同時期にも造られ続けていたとすると両者の関係が気になるところ。

▲下小松古墳群への道、途中までは舗装されていて歩きやすい

登山口に近いところは舗装路や看板が整備されていて、その歩きやすいところだけ見てきました。一番よく整備されていていろんなウェブサイトでも紹介されているのが小森山支群K-36号墳。前方後方墳ではありますが、サイズはかなり小さく、周囲にある小さな古墳とそう違いはありません。高さもなく、とりあえず形だけ前方後円形にしましたという印象です。もしかすると、このあたりを治めた過去の偉人の墓(天神森古墳)にあやかって同じ形にしたというようなことが、あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。

▲K-36号墳

その後、6世紀後半になると再び古墳は造られなくなり、米沢盆地では古墳時代ほぼ終了の感が出てきますが、盆地東部の高畠町のあたりでは新しいタイプの古墳が造られるようになります。横穴式石室を持ち、7世紀~8世紀にかけての築造。飛鳥時代の、いわゆる終末期古墳です。ということはこのあたりは、エミシとされる土地でありながら、律令国家の影響下にある人たちが住んでいたのでしょうか。

▲阿久津1号墳出土、三累環頭大刀の金具、うきたむ風土記の丘考古資料館

山形県立うきたむ風土記の丘には復元された阿久津1号墳と2号墳があります。復元古墳ではありますが2号墳には入ることもできます。石室は狭いけれど中では人が立てる程度の高さがあります。

▲阿久津1号墳(右奥)と2号墳

少し進むと清水前古墳群。こちらも復元古墳です。入口が狭くて入るのは難しい。古墳のむこうに盆地の反対側の飯豊連峰が見える好立地。

▲清水前古墳群のうちの1基、石室入口は狭い

▲清水前古墳群の向こうには飯豊連峰が見える

さらに西原古墳。こちらは畑の中にそのまま残っています。墳丘の上部は失われていますが、そのおかげで石室の平面構造がよくわかります。

▲西原古墳、墳丘上部は失われている

▲石室の平面構造はわかりやすい

石室の石材は周辺に分布する凝灰岩です。近代の採石場跡が瓜割石庭公園として公開されていて、風土記の丘からすぐですので古墳見物のついでに見るのがおすすめです。

▲瓜割石庭公園

[1]山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館(編)(2011)『やまがたの古墳時代―最上川流域のムラと古墳―』
[2]川崎利夫(2004)「最上川流域における古墳の出現と展開」『最上川文化研究2』東北芸術工科大学東北文化研究センター
[3]藤沢敦(2013)「古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけての東北地方日本海側の様相」『国立歴史民俗博物館研究報告』第179集

整備された千人塚古墳

静岡県富士市の千人塚古墳の整備が完了したと聞いて見に行ってきました。最寄り駅は岳南鉄道線の神谷駅もしくは須津駅で、徒歩20分くらいです。東京方面からは東海道本線をとことこ下って吉原駅で乗り換え。

▲JR吉原駅ホームから見た愛鷹山

千人塚古墳があるのは愛鷹山の南麓です。古墳時代のはじめから終わりまで波はありつつもたくさんの古墳が築かれたところ。愛鷹山は富士山の南東にあり約40万年前から10万年前まで噴火活動を続けた火山で、それ以降は活動がないために侵食が進んで富士山の裾でなんかとげとげした山になっております。愛鷹山から流れ出た川は今は沼川として吉原駅の西で直接駿河湾に注いでいますが、かつては浮島沼という湿地帯を形成し、古墳時代にはその南北に集落や古墳が築かれました。

▲千人塚古墳とその周辺図

神谷駅で岳南鉄道の電車を降りました。この電車、元々は京王線で走っていた中古車両を譲り受けたもので、そこからさらに30年近く走っているので超古い。もう文化財みたいな領域です。赤字路線だそうですが、残ってくれるといいなあと思います。

▲神谷駅に着く頃には乗客は自分だけになってしまった

▲神谷駅で岳南鉄道の電車を見送る

駅を出て少し進むと緩やかな上りになり、愛鷹山に向かって標高が上がっていきます。火山性の斜面ゆえに田んぼはなく、おそらく古墳時代にはあまり農業生産力のない土地だっただろうと思います。それゆえむしろ墓域としては使いやすかったんでしょうね。あるいは、田畑はなくとも牧はあったのかもしれないですが。現代には茶畑が広がり、さらに向こうを新東名高速の高架橋が通っています。

▲茶畑の向こうに新東名高速が見える

千人塚古墳は小さいながらもきれいな公園になっていました。はるか上を新東名の高架橋が跨ぐという、他ではあまりない迫力のある古墳風景です。

▲整備された千人塚古墳

墳丘は整備前の時点でかなりの部分が失われていて、元の形がどうだったのかはよくわからないため、最低限の盛り土になっているらしい[1]。いっぽうで石室はよく残っていて、補強をしてあるものの原形に近い状態のようです。石室の高さは最も高いところで2.35mあり、全長は11.5m。結構大きい。この近隣で同時代(6世紀末~7世紀中頃、飛鳥時代)の古墳としてこれに匹敵するのは、少し西にある実円寺西 1 号墳と、東の長泉町にある原分はらぶん古墳で、被葬者は当時このあたり(駿河東部)を治める「3 強」の首長の一角だっただろうという[2]。周辺の遺跡の状況から、浮島沼を拠点として手工業や水産加工業、水陸交通、軍備までをまとめる経営者だったようです。

▲千人塚古墳の石室は入れないけど柵の隙間から覗ける(照明あり)

古墳のあたりからはかつて浮島沼だった平野と、そのむこうに駿河湾が見えます。先日行った岡谷の古墳でも似たような眺めがあり、終末期古墳の被葬者が好んだ(あるいはステータスだった)立地かもしれません。

▲千人塚古墳の近くから見た風景

千人塚古墳の出土品は同じ富士市内の富士山かぐや姫ミュージアムということでそちらも見に行きました。公共交通機関でのアクセスはちょっとややこしく、岳南鉄道線で吉原本町駅まで戻り、そこから10分ほど歩いて吉原中央駅(バスターミナル)へ行き、バスに乗って広見団地入口バス停まで行き、そこから徒歩5分くらいです。

ちょうどいい具合に(というのはもちろん知った上で行ったのですが)期間限定で金銅製帯金具というものが展示されていました(2026年5月24日で公開終了)。2024年の発掘調査で出土したものということで、2022年刊行の発掘調査報告書には記載されていません。出たてほやほやです。

▲期間限定公開の金銅製帯金具その1

小さなものですが金メッキがよく残っていてぴかぴかです。文様は中国の神仙思想に基づく三神山や鳳凰が彫られ、精緻なつくり。おそらく百済系の技術者が作ったものが、飛鳥の王権とのつながりで千人塚古墳の被葬者にもたらされたのではないかとのこと。

▲期間限定公開の金銅製帯金具その2

ちょっとおもしろいのは、これが石室の「床下」から見つかったということです。この時代の古墳は、最初の被葬者(首長)の血縁者(?)が亡くなるごとに同じ石室に順に埋葬していく「追葬」がおこなわれますが、そのときに前の被葬者の骨や副葬品を一箇所にまとめたり破壊したりする儀礼行為(考古学では「片付け」と呼ぶ)がおこなわれた痕跡が見つかっています。たとえば栃木県の古墳では、副葬品を石室外に持ち出したり(竹下浅間山古墳)、刀や鏃や石棺を壊す(下河原崎高山5号墳)など、「古墳が終焉を迎える7世紀において、先の埋葬を「否定」するような動きがある」[3]。また、愛媛県の葉佐池古墳では副葬品と木棺を壊し、床面といっしょにぐちゃぐちゃにかき混ぜている[4]。目的は、死者が絶対に蘇ってこないようにする「再生阻止の意思を込めた破壊行為」だと推測されています。
千人塚古墳の場合は追葬のときに最初の被葬者の副葬品を(もしかしたら骨も?)移動した後に、その上から床石を敷き直したことになります。床下に閉じ込めることでこれも「再生阻止」したのかもしれません。敷石の下から副葬品が見つかった例としては、他に広島県の鏡東谷古墳があるようです[5]

その他、千人塚古墳や周辺の古墳からは馬具の出土が多いようで、やはり愛鷹山南麓での馬の生産が考えられるようです。

▲千人塚古墳とその周辺の古墳から出土した馬具

[1]富士市教育委員会(編)(2026)『須津 千人塚古墳 保存整備事業報告書』
[2]富士市教育委員会(編)(2022)『富士市埋蔵文化財調査報告 第74集 静岡県 富士市
須津 千人塚古墳』
[3]栃木県立博物館(2024)『第140回企画展 死者と生者の古墳時代~下野における6・7世紀の葬送儀礼~』
[4]栗田茂敏(2015)『シリーズ「遺跡を学ぶ」103 黄泉の国の光景・葉佐池古墳』新泉社
[5]広島大学デジタルミュージアム「東広島キャンパスから出土した遺物/鏡東谷遺跡」
https://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~main/index.php/%E6%9D%B1%E5%BA%83%E5%B3%B6%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E5%87%BA%E5%9C%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E9%81%BA%E7%89%A9/%E9%8F%A1%E6%9D%B1%E8%B0%B7%E9%81%BA%E8%B7%A1#.E5.8F.A4.E5.A2.B3.E6.99.82.E4.BB.A3
(2026年5月24日閲覧)

岡谷の古墳、スクモ塚など

長野県は諏訪湖の北西岸にある岡谷。諏訪盆地の中でそこそこ広い平地があり、もちろん水もあり、近くに諏訪大社があるというなんとなく古墳がいっぱいありそうな環境でありながら、わりと古墳空白地帯です。とはいえ全く無いわけではなく、興味深い古墳もありますので、それを見に行ってきました。
市内の公共交通は充実していないので、まずは駅に併設の観光案内所でレンタサイクルを借ります。岡谷は諏訪湖側が低い扇状地であり、古墳があるのは山側なので、往路は上り坂。というわけで足を鍛えたい人でなければ電動自転車がおすすめです。1日1000円。電動自転車にはママチャリタイプと小径車の2種類があり、観光案内所の人によると小径車は全然スピードが出ないからママチャリが良いらしい。なのでママチャリにしました。

▲電動ママチャリ、唐櫃石古墳への入口にて

そうしてたどりついたのは唐櫃石かろうといし古墳。道路の脇から小径が続いていて、その先の林の中にあります。見たところ終末期の古墳のようですが現地の看板や『岡谷市史』に年代の記述はなく[1]、ネット情報では7世紀~8世紀とのこと。入口周辺の石積みや通路状の石囲いが特徴的と思えます。墳丘は破壊されていたものを復元したらしく、それゆえきれいです。そしてその復元された石室の中にヒカリゴケが生えていて古墳とともに市指定文化財になっています。

▲唐櫃石古墳

この古墳からは諏訪湖を見渡すことができ、木がなければ富士山まで見えるはずです。このあたりを治めた首長の墓としてふさわしい立地。

▲唐櫃石古墳の背後から諏訪湖を見る

国道20号を東へ少し進み、次のコウモリ塚古墳へ。ここは入口の看板もなく、古墳へ至る小径が整備されているわけでもなく、道路脇から林の中を登ります。下草は刈られているので歩きにくくはないけれど、それにしても急な斜面の上にあります。こんなに急な斜面に古墳を造ったら儀式をするために行くのも一苦労だったのではないか。ただそのぶん眺めはよかっただろうと想像できます(現況は林なので眺望なし、下の道路から諏訪湖が見える)。

▲コウモリ塚古墳

墳丘はほぼ完全な状態で残っているそうですが、石室の石材が崩落しそうになっていて入ることはできません。副葬品の馬具は豪華で、埋葬されたのは相応の有力者だろうと思えます。

▲コウモリ塚古墳の副葬品の馬具、岡谷美術考古館にて

続いて扇状地の坂を下り、スクモ塚古墳へ。先に行ったふたつの古墳に比べるとずっと平坦な場所にあります。これはこの地域では珍しいらしい。もともと宅地化が決まっていたのを市民の保存運動によって守り、「岡谷市民の誇りとして永久に心に刻みつけられるにちがいない。」と市史は高らかに記す[1]。現状は墳丘はかなり削られていて低く、手入れされているけれどすごくきれいなわけでもない公園という感じです。言われなければ古墳とはわからないかもしれない。でもともかく残っている。ありがたいことです。

▲スクモ塚古墳

楕円形の古墳ですが、市史は「前方後円墳または双子墳」と「推理」する。 時期は今日巡った3つの古墳では最も古く、6世紀末から7世紀初頭か。出土品は保管していた小学校の火事で多くが失われたそうですが一部は残っていて、岡谷美術考古館の考古企画展示(2026年4月29日~7月11日)で展示されていました。焼け残りゆえ数は少ない(ケース1個分)ですが、須恵器と鉄剣・鉄刀。須恵器はきれいな造形です。短頸壺の曲線が美しい。

▲スクモ塚古墳出土脚付短頸壺、岡谷美術考古館の企画展示にて

▲スクモ塚古墳出土鉄剣と鉄刀、岡谷美術考古館の企画展示にて

岡谷の古墳がどのような人々によって造られたかというのは、かつてこのあたりにあった「岡屋牧」(馬の牧場)との関わりが考えられているようです。市史はコウモリ塚古墳を馬牧の確立した時期の古墳とする[1]
また天竜川下流の伊那谷南部では馬生産に関わる古墳が5~6世紀に多く造られますが、6世紀中葉にそれより少し北の松島王墓古墳、岡谷の隣、諏訪の青塚古墳、さらに峠を越えて上田の二子塚古墳と、前方後円墳が「古東山道沿いに点在する」[2]。スクモ塚古墳はこれらに続く時期です。古東山道といえば馬の道ですので、有力な前方後円墳の分布が広がるのは馬と関係するかもしれません。

伊那谷の古墳と松島王墓古墳については以前こちらにも書きました。

hamajiu.hateblo.jp

また上田の二子塚古墳はこちら。

hamajiu.hateblo.jp

 

〔参考文献〕
[1]岡谷市(編)(1973)『岡谷市史 上巻』
[2]佐藤雄一(2021)『古代信濃の氏族と信仰』吉川弘文館

久津川車塚古墳

▲久津川車塚古墳、横から。

京都府の久津川車塚古墳に行ってきました。全長180mと結構大きな前方後円墳。京都と奈良のちょうど中間あたり、城陽市にあります。現代でも京都都市圏で便利な立地ではありますが、古墳時代においてはさらに便利。木津川を遡って木津で上陸して南へ向かえば当時の日本の中心の奈良盆地へ、反対に下れば淀川を経由して大阪湾へ(さらには交通の動脈である瀬戸内~九州へ)出られるということでアクセス良好です。出土した埴輪には帆掛け船と思われる線刻画があり、木津川の水運に関わるものと思われます。

▲城陽市歴史民俗資料館に展示されている円筒埴輪

▲円筒埴輪の線刻画拡大。帆掛け船?

このあたりは近鉄京都線とJR奈良線が近い位置を走っていて、最寄り駅は近鉄のほう、久津川駅です。駅から東に向かって歩いていき、JRの線路の手前が古墳です。墳丘は林に覆われて放ったらかしのように見えるけれど、見学者用の入口があったり、くさむらの中にベンチがあったりして、一応ちょっとだけ整備(?)されています。将来的には史跡公園としてちゃんと整備する計画らしい。

▲見学者用の入口がある

前方部の角に小径がありそこから墳丘に登れます。前方部は平坦で広々としている。竹の切り株がたくさんあり、かつては竹林だったところをさっぱり伐ったようです。遺跡の保全という点では竹はよくないですもんね。でも筍が生えてきているので完全にやっつけられたわけではないっぽい。

▲前方部から後円部方向を見る

▲前方部に生えている筍

この古墳は国鉄(当時)奈良線の建設時に線路を通すために墳丘の東側を削られており、さらに土取りのために後円部が抉り取られて結構散々な状態になっています。

▲久津川車塚古墳の赤色立体地図(全国Q地図より)

▲抉られた後円部の向こうをJR奈良線の電車が走る

その工事のときに長持形石棺が出土して、いまは京都大学総合博物館に展示されています。破壊されたとはいえ、残すべきものが残っているのはありがたいことです。将来はこの後円部がどういう形で整備されていくのか楽しみです。

▲京都大学総合博物館に展示されている長持形石棺

車塚古墳の後は近くの芭蕉塚古墳にも行ってみました。この界隈では車塚古墳に次ぐ約110mの大きな古墳。こちらは私有地のため立入禁止。墳丘は竹林に覆われています。

▲芭蕉塚古墳

 

奈良の古い庭園ふたつ:東院庭園と旧大乗院庭園

奈良の平城宮跡がいろいろ整備されてきていると聞いて行ってきました。以前にも一度行ったことがあったけど、当時はまだ朱雀門と大極殿があるだけの広大な空き地でした。今はちょっとだけ建物が増えて、以前は無かった観光施設もできている。

▲大極門から大極殿を見る

朱雀門の南に「天平うまし館」というレストランとカフェが入っている建物があり、ここで昼食にしました。レストランで天ぷらうどん。ちゃんと(?)関西風の色が淡くて出汁が利いているおいしいうどんです。

▲レストランの天ぷらうどんがおいしい

外に出たら雨が降っていたので予定変更して隣のカフェで雨宿り。コスタコーヒー。最近増えてますね。以前どこかで飲んだときはあんまり印象に残らない味だったんですが、ここでこの日飲んだフラットホワイトはおいしかったです。

▲コスタコーヒーもおいしい

一番の目的地は東院庭園でした。発掘調査で見つかった平城宮の庭園を復元したもの。奈良時代の庭は数少ないです。新緑の時期だからというのはあるにせよ、良い庭園です。後の世に作られた庭にあるような立体感には乏しく平面的ですが、シンプルな美しさがある。

▲東院庭園

そもそも私たちが庭園と聞いて思い浮かべるような風景の始まりがこの頃であるらしいです。これ以前の飛鳥時代には直線的な石積の護岸で池を作っていたのが、草付き(石を使わず草などを植える)や州浜(緩やかな斜面に小石を敷く)の曲線的な池になった。自然風景的要素が強くなり、庭園デザインは大転換を遂げた。以後の日本庭園はここで確立されたものを基盤として展開していき「まさに日本庭園史上の画期をなした」との評価です[1]。つまり今ここで日本庭園の始まりを見ていることになる。

▲東院庭園(上の写真の奥の方から)

ちなみにこのような日本的庭園デザインはなにもないところからいきなり湧いて出てきたのではなく、遣唐使によって唐からもたらされた情報が影響を与えているそうです。そういえば「天平うまし館」の近くに復元遣唐使船が展示されていました。つながっていますね。

▲復元遣唐使船。思いの外小さい。

この後、奈良公園へ行き、旧大乗院庭園も見てきました。大乗院という門跡寺院の庭園ですが、大乗院自体は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、以後は奈良ホテルの敷地になり、発掘調査をした後に2010年から復原公開されています。ここも以前来たことがありましたが、やはり新緑の時期は良いですね。東院庭園に比べると起伏があり、風景全体で雄大に見せるような、より構成された庭園という感じがします。ただしそれでも、江戸時代の庭園のような技巧を凝らした感じではなく、おおらかで、東院庭園にも通じるシンプルさがあるようです。

▲旧大乗院庭園

この大きな池は平安時代には原形が作られていたそうで、おおらかさはその時代的なものかもしれません。平安時代的な要素に回遊式庭園という後の時代の要素を融合させて発展させたところにこの庭の魅力があるようです[2]

▲旧大乗院庭園の新緑

こんなに良い庭なのにこのときは他に誰もいませんでした。静かですばらしい体験だったのは間違いないですが、誰も見に来ないのはもったいないなあという気がします。

〔参考文献〕
[1]小野健吉(2015)『日本庭園の歴史と文化』吉川弘文館
[2]奈良文化財研究所(2018)『名勝旧大乗院庭園発掘調査報告 本文編』

福山市の古墳 二子塚古墳など

福山市の古墳を見に行ってきました。福山駅や福山城のある中心市街地ではなく少し北の神辺のあたり。古墳時代には山陽道(もしくはその原形になる道)は現在の国道2号付近ではなく内陸の神辺から隣の府中市へ通っていたそうで、古墳の分布もそのあたりが中心になります。
神辺周辺には立派な横穴式石室のある古墳がたくさん分布しているそうで、ぜひともたくさん見ておきたいところ。しかし交通の便はあまりよくありません。レンタサイクルもないようです。そのため徒歩かレンタカーを借りるかになるのですが、今回は散歩がてら駅から歩いて行ってみました。

▲今回の目的地は二子塚古墳。前方部から見たところ。

まずはJR福塩線の近田駅から北へ徒歩20分ほどの二子塚古墳へ。それなりに坂を上った丘陵上にあります。古墳時代の山陽道は福塩線の近くを通っていたと推定されていますが(最明寺跡南遺跡)、古墳は推定の山陽道からはちょっと奥まったところにあるのでおそらく「街道からすごくよく見える」という感じではなく、さほど見せることを重視したわけではないようにも思えます。近い時期(6世紀後半)に隣の岡山県に造られたこうもり塚古墳が山陽道の脇にドンと構えているのに比べるとちょっと控えめ。

▲二子塚古墳のサイドビュー

二子塚古墳は全長約73mの前方後円墳でこのあたりでは最大規模。築造時期は6世紀末から7世紀はじめ頃。前方部と後円部の両方に横穴式石室があり、前方部石室は埋め戻されていますが、後円部石室は中を覗くことができます。通常は金網越しに見られるだけですが、この日はたまたまボランティアの方が古墳を清掃中で、うろうろしてたら「よかったら見ていく?」みたいな感じで鍵を開けてもらえました。そういうこともあるのか。

▲後円部石室の入口。周囲は保存のため補強されている。

石室の特徴は、石がデカい。奥壁は巨大な一枚石です。奥壁の石が大きいのはここに限った話ではなく、古墳時代後期に西日本を中心に見られる現象で、吉備(福山も含む)、出雲、九州では六世紀末頃に奥壁が一石化した石室が出現する[1]。とはいえよほど有力な人の墓であることに違いはありません。

▲石室の奥壁

石棺は板石を複数枚組み合わせた組合せ式です。失われた部分は復元して組み直されています。石材は近隣の古墳では地元で採れる浪形石という石灰岩を使うことが多いそうですが、ここでは畿内の古墳で使われることの多い竜山石が使われていて、畿内とつながりの深い人が葬られたのかと思われます[2]

▲組合せ式石棺

ボランティアの人から、石棺の失われた石材のうち1枚は近在の最明寺というお寺にあると教えてもらいました。話しているといろいろと詳しい方です。こういう人が管理してくれているおかげで史跡が保たれているんですね。ありがたくて感動してしまう。

▲最明寺の板碑

それで、こちらがその最明寺の板碑です。古墳から持ち出された板石に「南無阿弥陀佛」と刻まれています。建立は延文二年、南北朝時代です。どういう意図があってこうなったんでしょうね。たまたま板碑にしやすい石材があったから使っちゃえ、ということなのか、それとも古墳の石材を使うことに意味があったのか。兵庫県の加古川流域では同時代に石棺材を転用した石棺仏が多数造られていて、なんらかの共通の背景があるのかもしれません。

▲加古川市、成福寺墓地の石棺仏(2025年12月撮影)

最明寺の近くには他にも古墳があります。ひとつめは権現古墳。

▲権現古墳。熊野神社の社殿が建っている。

古墳上部の土が失われて、露出した石室の上に神社の社殿が建っています。これも時代を超えた宗教の融合。六世紀後半の築造で、二子塚古墳よりは少し古い。

▲権現古墳の石室の中を覗く

さらに進むと山の神古墳があります。六世紀中頃の築造で、さらに少し古い。古墳自体はさほど大きくなく、石室の入口も現状では狭いですが、中に入ると古墳の大きさに比べて驚くような広い石室です。二子塚古墳よりは古い時代のものということで奥壁はまだ巨大化していませんが天井には大きな石が使われています。石室の上部ほど側壁がせり出してきて上すぼまりになる「持ち送り」構造。見どころの多い石室です。

▲山の神古墳の石室

▲山の神古墳の天井石

帰りは福塩線の駅家駅まで徒歩15分。駅から遠い場所にも個性的な石室の古墳が多くあるようですので、車で巡る機会があれば行ってみたいと思います。

(参考文献)
[1]尾上元規(2024)「巨石墳の発掘調査―こうもり塚古墳と箭田大塚古墳―」『季刊考古学・別冊45 吉備の巨大古墳と巨石墳』雄山閣
[2]村田晋(2024)「備後における中期・後期の首長墓系譜」前掲書

クレアこうのすと本庄早稲田の杜ミュージアム

鴻巣市にある「クレアこうのす歴史民俗資料コーナー」と本庄市にある「本庄早稲田の杜ミュージアム」に行ってきました。どちらも無料の割に古墳時代の展示が充実、古墳が好きならスルーするのはもったいない。アクセスが微妙に悪いですが東京から余裕を持って日帰りで見て回れます。

 

●クレアこうのす歴史民俗資料コーナー

高崎線鴻巣駅から徒歩20分くらい、または免許センター・加須車庫方面のバスで鴻巣市役所下車。鴻巣市文化センター「クレアこうのす」の隅にあります。隅っていうのが本当に隅で、外光が降り注ぐ開放的で広々とした「クレアこうのす」……にありながらその一番奥の、普通に歩いていたら気づかないようなすり鉢みたいなスペース。もしかしたら文化財保護のためにあえて外光が入らないようにしているのかもしれません。

▲歴史民俗資料コーナーは一段低くて薄暗い

展示されているのは近所の生出塚遺跡で出土した埴輪。ここで製作された埴輪は近くの埼玉古墳群に供給されていて、おそらく埼玉古墳群を造った勢力の統率下にあって専用窯のような立ち位置だったようです。それだけでなく荒川流域から東京湾沿岸の古墳にも多数供給され、広域的な地域間の結びつきがあったことがわかる[1]。と一言で言えば簡単ですが、こんなに大きくて重いものをたくさん運ぶのは船にせよ陸路にせよ当時の労働力では大変なことだったはずで、一大産業といえそうです。

▲充実の埴輪展示

生出塚の埴輪は造形が整っているのもポイントですね。埴輪なので写実的ではなくデフォルメされたデザインなんですが、そのデフォルメが板についているというか、手慣れたプロの仕事という感じがします。さらに人物の服装や馬につけられた飾りなどがデフォルメされつつも表現されていて当時の文化を垣間見ることができる。

▲人物埴輪(農夫)

鍬を担いだ農夫。被っているのは菅笠だそうですが[1]、市女笠みたいな形。首飾りもしていておしゃれですね。当時の農民はおしゃれだったのか、それとも儀式に参加するときの正装なのか。

▲人物埴輪(貴人・武人)

偉い人たちの埴輪はみんな腕輪をしています。古墳から出土する腕輪、あれちゃんとみんな使ってたんだなあということがわかる。人によって帽子・冑・髪型がいろいろあるのも興味深いところ。

▲貴人のズボン

お偉い人といえば、おズボンがやけにボリューミーで市松模様です。埴輪って誇張はあっても無意味な造形はしていないように思えるので、おそらく実際に偉い人は一般人よりもボリューミーな市松模様のおズボンを穿いてたんでしょうね。さらにこんなに誇張するってことは、おズボンのボリュームは「偉さ」において重要な部分なのかも。

▲埴輪馬2体

装飾てんこ盛りの馬と、鞍をのせただけの馬。おしりに馬鈴がいっぱい付けられていて、これも古墳出土品の馬鈴が実際に使われていたことがわかります。

▲飾り馬のおしり

●本庄早稲田の杜ミュージアム

早稲田大学本庄キャンパス内にあるミュージアム。上越新幹線・北陸新幹線の本庄早稲田駅からすぐ、という意味ではアクセスが良いのですが、休日日中には1時間に1本しか新幹線が停まらず、おまけに新幹線なので料金が高くてアクセスの障壁はややある。高崎線本庄駅から徒歩40分、またはワゴン車で運転される「はにぽんシャトル」でも行けますがどちらも便利とはいいがたい。

▲本庄早稲田の杜ミュージアム常設展に入ってすぐの景色

これで無料かと驚くくらい充実した展示です。埴輪もあり、土器もあり。

▲せきね古墳出土女子人物埴輪

せきね古墳出土女子人物埴輪。古墳から出土する耳飾りや首飾りの使用例がわかる。

▲東五十子23号墳出土人物埴輪

東五十子23号墳出土人物埴輪。ニット帽のような帽子を被り、琴を弾く男性です。当時の琴は6弦なんですね。ギターと同じ。古墳時代のロックスターかもしれない。

▲東五十子23号墳出土人物埴輪

同じく東五十子23号墳出土人物埴輪。頭に壺をのせて運ぶ女性。壺って抱えて運んでたのかと思っていた(そしてそれゆえ「抱えやすさ」がデザイン上重要なのかと思っていた)けれど、頭の上にのせてたんですね。大きめの壺を見るときには頭にのせて運ぶということを意識したほうがいいかもしれません。

▲金鑚神社古墳出土円筒埴輪

▲金鑚神社古墳出土円筒埴輪(拡大)

金鑚神社古墳出土円筒埴輪。よく見ると表面にポツポツとした圧痕が多数あります。普通の埴輪は表面を仕上げるときに板などで撫でて滑らかにする(ゆえに細かい筋がたくさんつく)のですが、これは工具でぺちぺち叩いて仕上げてあります。朝鮮半島で見られる技法で、おそらく渡来系の技術者が埴輪作りに加わっていたらしいことがわかる[1]。異国の香りがする円筒埴輪。

▲諏訪新田遺跡出土砥石

諏訪新田遺跡出土砥石。古墳から刀剣や鏃や農具が出土してそれが展示されていることはよくあるんですが、それを研ぐ砥石は少ないですよね。それもこんなに砥石っぽい砥石の展示は初めて見た気がします。

それから、このときは企画展「古墳時代の児玉・深谷地域」が開催されていました(期間:2026年1月17日~3月22日)。近隣の児玉・深谷地域で見つかった古墳時代の出土品が並んでいます。これも結構気合が入った内容。

▲広木大町9号墳出土鉄製直刀

広木大町9号墳出土鉄製直刀。鍔の象嵌がきれい。古墳時代後期の鍔の象嵌っていい感じですね。ぐるぐるの渦巻文がいっぱいあるタイプがわりと多い(そしてかわいい)イメージですが、これは結構凝っていて、心葉文の中に蕨手文?

▲日の森遺跡出土S字甕

日の森遺跡出土S字甕。S字状口縁台付甕、通称S字甕は、弥生時代の終わりから古墳時代前期にかけて東海地方を中心に流行ったタイプの甕です[2]。胴の丸みが下にいくほど直線的になり、ほどよいサイズの台が付くことできれいなシルエットになっています。さらに口縁にS字状の屈曲が加わることで美しさが増して良い(左隣の台付甕と比べると違いがわかる)。流行の中心地である東海地方へ行くと小さめの資料館でも結構見かけるんですが、関東でこのサイズのきれいなS字甕はあまり展示されていないかも。

▲社具路遺跡4号土坑出土土器(高坏)

▲社具路遺跡4号土坑出土土器(器台)

社具路遺跡4号土坑出土土器。完形できれいな造形の土器です。高坏はおそらく焼成時にぐにゃっと曲がってしまったのがむしろ良い味になっています。傘の開いたきのこのような。器台のほうは、壺を置く上側が狭く最低限で、底部は広く安定感がある、このバランス感覚が絶妙です。

 

〔参考文献〕
[1]高田大輔(2010)『シリーズ「遺跡を学ぶ」073 東日本最大級の埴輪工房・生出塚埴輪窯』新泉社
[2]あいち朝日遺跡ミュージアム(編)(2025)企画展パンフレット『「S字甕」というとても薄い甕が流行っていた件』