猛暑と蚊と稲荷塚古墳

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▲奥の森が稲荷塚古墳のある公園

暑い。東京近辺について言えば、相変わらず新型ウイルスの感染者が増え続けているけれど、それ以外は普通です。梅雨は遅くとも常識の範囲内で明けて、猛暑とはいえ近年よくある感じの夏になった。ベランダには猛暑を避けて野良猫が寝転がりに来るようになって昼間からいびきをかいて寝ている。米びつにコクゾウムシとメイガが湧いた。玄関前にセミが転がっている。夏はいつもどおりに暑くて、人間だけ騒いでいる。かといって街に出たら誰かが踊っているわけでもなし、争いごとも起こっていないし、静かで平和です。テレビとかネットを見て大変だと思うけれども電源を切ってしまうとそれほど大変でなくなって、遠くのセミの鳴き声と同じになる。

あと蚊が湧いてきた。蚊は刺して血を吸ってかゆくなるから嫌い。野良猫もコクゾウムシもメイガもセミもおおむね無害だけど蚊は有害なのだ。アレルギー体質なので刺されたところが大きくなるし超かゆい。ヤだから潰すんですけど、吸った後の蚊を潰したら血が出る。潰して血が出たときの悔しさは大きい、というのもこの血は完全に無駄である。自分の体の中にあれば役に立つし、蚊が吸ってその栄養になればそれも役に立ったと言えなくはない。しかし潰してしまうと何の役にも立たない。手が汚れて足がかゆくなっただけだ。じゃあ潰さなければせめて蚊の生育に多少は役立つ、でもそれ以上かゆくされるとヤなのでやはり潰さなければならない。そうしてこういう何の役にも立たない思考をぐるぐる回してしまうので蚊はムカつくのである。生物多様性を無視した感情としては絶滅してほしい。しかし生物多様性はわりと重視する立場なので絶滅したら困る。

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▲稲荷塚古墳

稲荷塚古墳で蚊に刺されたのだ。多摩ニュータウンから少し外れた位置にあって、周辺は「ニュータウンではない多摩の住宅地」としては普通の風景という感じがする。古墳自体は特別に大きくはなくて墳頂にお稲荷さんがあるのも普通。ただし形が八角形(っぽい)ということで多少の注目を集めている、そうです。

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詳しくは(および、正しくは)専門の先生が書いた本を読んでいただくのが良いですが、八角形墳についてこれまでに読んだ本の内容から理解したことによると、

    • 7世紀の中頃(古墳時代終わり頃)に舒明天皇陵が八角形を採用して、それ以降天皇や皇族クラスの偉い人の墓としてしばらく八角形墳が造られた
    • おそらく仏教や道教の影響で八角形が採用されたのだろう
    • その前後の時期に地方のあまり大きくない古墳でも八角形がたまに造られているが天皇陵の形との関係は不明 (1)

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▲三津屋古墳

八角形墳について調べていると必ず出てくる群馬の三津屋古墳はかなりいかつい八角形。天皇陵が八角形化した後の7世紀後半築造ということなので天皇陵にあやかったのかもしれない。

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▲伊勢塚古墳

一方で同じく群馬の伊勢塚古墳は天皇陵で八角形が採用される以前の6世紀後半築造で、別にあやかったわけではなさそうです。あと、正八角形ではなくて、正方形の角を面取りしたような不整八角形と推定されている。(2)

その点で稲荷塚古墳は、発掘調査報告書の図を見るとたしかに八角形っぽくはあるけどなんとなく丸い気もする。というか当の報告書に、

本古墳を確実な八角墳であると言う認定に至っていないのが現状である。その中で、円墳でないと言う意味で多角墳と言う意見がある。(3)

とあって、なんか曖昧である。またそれとは別に、

各地で八角墳が確実にあるのか疑問に思っている。各地の八角墳といわれている多くが、むしろ円墳を意識して造営されたもので、張り石などの積み上げの際に構造上の必要から角が作られているだけではないかと思う。(4)

という、稲荷塚古墳もあれもこれも八角形じゃない説もあるようです。「仏教思想に基づいて……」とか「大王家との関係で……」みたいな話よりも個人的にはこういう実用重視説は好きです。人間って感じがするので。(むろん好きであることと説が正しいかどうかは関係ないです)

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▲稲荷塚古墳、公園から

稲荷塚古墳の隣は公園になっていて、ぐるりと回って見ることができます。なぜか草のない部分がありそのあたりが周溝の位置のような感じもするけど特に看板とかはなく無関係かもしれない。この公園をうろうろしていたら蚊に刺されたのだ。かゆい。

(参考)

(1)土生田純之(2011)『古墳』吉川弘文館

(2)志村哲(1997)「伊勢塚古墳の八角形墳丘プラン」『月刊考古学ジャーナル』414、ニュー・サイエンス社

(3)国際文化財株式会社(編)(2018)『多摩市埋蔵文化財調査報告第79集 和田・百草遺跡(臼井塚古墳周辺地)稲荷塚古墳』多摩市教育委員会

(4)河上邦彦(2014)「終末期古墳の認識と諸問題」『月刊考古学ジャーナル』655、ニューサイエンス社

コロちゃん

新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言が出て、外出自粛になり、10日ほどが経ちました、今。なんか適当に旅に出て古墳を眺めたりしたいのだがそういうわけにもいかず、暇つぶしに本をいっぱい読もうと思って、使わなかった旅費をハードカバーにも躊躇なく注ぎ込む。買った。

 感染拡大防止に貢献しようと思うのだけどマスクが軒並み売り切れなので、効果がどの程度あるかは不明ながら外出時はフェルトで自作したマスクを毎日着けています。そうすると帰宅したときに次亜塩素酸ナトリウム水でマスクを洗うというルーチンがいつの間にか身についていた。口の周りにマスクがある感覚とか、かすかな塩素臭とか、消毒のためには次亜を使おうという考え、あるいはマスクが乾いたかどうか気になる、屋内で人と接近したくなくなる、超手洗いしたくて洗うけど手が荒れてきてハンドクリームを塗る。感染拡大防止のためには行動変容が必要だと言われているけれども、必要と言われている範囲の外でもじわじわと感覚が変わっていっている気がする。

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ストーンヘンジの東側にある墳丘。奥の林にも墳丘群っぽいのがある。

そして感覚が変わるとアウトプットも変わる。仕事中に考えていること、次のプレゼンはどんなのを提案してみようとか、は少し変わった。いまの仕事は小さいのでそういう変化が世の中に与える影響はほとんど無いのだけど、世界中の人にちょっとずつ変化が起きているとすると、この騒動が終わった後に出てくる新しい商品やサービスはかなり変容するかもしれない。あるいは変わらないかもしれない。変わらなかったらこんなことを考えているのは少し恥ずかしいけど評価は今はわからない。

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ストーンヘンジの北側に見える墳丘群。

人間の行動が変わり、アウトプットが変わり、今までとは違う物が社会に広く出回るようになると、きっと人間は今までとは変わった社会に対して適応して思考を変化させる。曰く、

ヒトは、(中略)さまざまな人工物(衣服、道具など)を介して環境と関わり、人工的な環境(住居、集落、都市など)を構築する。そしてそこでの生活に適応し、さまざまな決まりごとによって成り立つ社会的関係の中で新しい世界を作り出し、そこで生きていくことによって新しい行動や思考が生まれる。作り出された世界と、そこで育まれた人間行動、規範、社会組織とが、一体となって次の世代に継承される。
――松本直子「人間行動とモニュメント」前掲書

つまり古墳とかのモニュメントが造られたのは何らかの環境や考え方の変化があってのことだろうけれども、造った人間自身、社会すら、自分たちが造ったものから影響を受けて変わってしまう(と理解しました)。日本の古墳時代は古墳造りに超謎な正のフィードバックが働いて全国で熱狂的古墳築造に突き進んでいったのですが、現在のマスクフィーバーはどう変化してゆくのかしら。

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▲ソールズベリーへ戻るバスの車内から見えた墳丘。羊が群がっている。

感染拡大の話とは関係ないけど、前掲書にはイギリスの墳丘墓も紹介されていて大変ワクワクしたので、昨年イギリスのストーンヘンジに行ったときに撮った墳丘墓の写真を並べておきました。ぱっと見は日本の群集墳に似てる。事態が収束したらまたどこか遠くのデカい墓を見に行きたい。

パチンコ屋の前、寺の前

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▲駐車場内にある寺の前古墳群2号墳(さんごうじ塚古墳)。

石和温泉駅北口から国道を渡ったところにあるパチンコ屋の敷地内に古墳の墳丘の一部が残っています。名前は寺の前古墳群。この手の遊戯施設はあまり文化財保護とかしなさそうなイメージ(先入観)だったのだけれど、この古墳群は駐車場の植栽としてきれいに整備されてて、意外な組み合わせも含めて、いい仕事のように思われます。

駐輪場の脇にあるのが2号墳(さんごうじ塚古墳)。看板が立っていて、文化財の説明看板かと思ったら駐車場の注意表示だった。発掘調査報告書*によると「2基(2・3号墳)は墳丘が一部現存し」とあるのでわずかに土が盛り上がっているのは墳丘なのかもしれない。7世紀の円墳で、横穴式石室がかつてあったけど戦後取り壊されたとのこと。石が散らばっているのは石室の残骸であるのかどうかわからない(このあたりはもともと礫が多い)。

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▲2号墳。円形に石が置かれているが古墳の何かを表しているのかどうかは不明。
看板は盗難・事故の責任を負わない旨。

道路に面した場所に柵で囲われているのが3号墳(道祖神塚古墳)。きれいに石が積まれて道祖神が祀られている。これも墳丘がわずかに残っているように見えるけれども、少なくとも見えている石積みは後世に組み替えられているはずです。復元すると推定直径26mということで、今見えている部分よりずっと大きい。

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▲3号墳

ところで、寺の前古墳群というからには後ろに寺があります。大蔵経寺。300円で中を拝観できて、庫裏も本堂も大変にきれいに手入れされているし、静かにお不動さんを拝んでもよく、そして庭園が良いです。これもまた手入れされていて、最近改修されたらしい縁側に座ってひとり静かに(たいてい他に参拝客はいない)眺めているのが良い。

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大蔵経寺の庭園

根拠があってのことではないけれど、あるいはとっくに誰かが指摘していることかもしれないけれど、庭園は音に特徴があるといっそうよろしいように思われます。例えば回遊式庭園の場合だと、歩いていてだんだん水音が近づいてくる。せせらぎが見えて、音も風景もにぎやかになる。それを越えてしばらく進んだところで不意に水音がまったく聞こえなくなり、風の葉擦れの音だけが聞こえる。静寂。この急激な場面転換に出会うと、いい庭に来たという感じがします。

反対に庭園の拝観順路で案内放送を流しているような場合はせっかく庭の音を聞きたいのに惜しい。しかしそういう騒音じみた音もまた現代の寺の風景だと思うと趣深いといえるかもしれないし、あるいはそういうところに美しさを感じるほうが仏教的かもしれない。

案内放送がずっと流れてる庭園についてはちょっと面白い体験があって、川越の喜多院の庭を見ているときのことです。放送が煩わしいと思っていたのだけど、順路の途中のトイレに行ったところトイレの前だけは放送が聞こえなくなり、手洗いの水が流れる音だけがして、狙ったものかどうか静寂に包まれた。そうするとさっきまで煩わしいと思っていたのに急に良い庭のように思えてきて、つまり音ひとつで印象が随分変わるのだなあと感じたという話です。

大蔵経寺の庭に戻ると、この庭園は回遊式ではなく縁側に座ってボーッと眺めるタイプです。したがって歩きながらの時系列的な音の変化というのはない。しかし静かな空間に水の落ちる音だけがしていて、しかも面白いことに風で竹が揺れても葉擦れの音が水音にかき消されて聞こえないのです。水音のする庭に、音もなく竹が揺れているように見える。なんだかそれが竹が揺れるという“現象”そのものを見せられたようで一瞬、非日常に迷い込んだような気がした。

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 (参考・引用)

*山梨文化財研究所(編)「笛吹市文化財調査報告書 第26集 大蔵経寺前遺跡・寺の前古墳群 ―遊戯施設建設にともなう埋蔵文化財調査報告書―」2012

湯村温泉の古墳

 山のほう(内陸)へ行きたいのと、温泉に行きたいのと、すごく遠出するほどの元気はないけど少しは遠出したいのが重なって、甲府湯村温泉に行った。それだけなら普通の温泉旅行なのだけれど、この温泉街には古墳があるので、そのことを書いておこうと思ったのです。

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▲富士山、湯村山から

 あと、古墳とは関係ないけど太宰治の『美少女』という小説があります。あらすじは、湯村温泉の混浴の湯槽に浸かっていたらたいそう美しい美少女がいたので心のなかでフヒフヒ言いながら見ていたという、気持ち悪いおじさんの語りなのだけれど、Twitterあたりに住む二次元美少女が好きなおじさんの語りに通ずるものがあって、なんとなく慣れ親しんだ感じがないこともない。あるいは親近感がある。

太宰治 美少女

 太宰治は湯がぬるいと文句を言ってるけど実際はちゃんと熱かったです。当時とは源泉が違うのかもしれないし、または加温してるのかもしれない。いずれにせよいい湯でした。

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▲温泉の裏山にある大平2号墳(右)と大平1号墳(左奥)

 ところで1月のNHKラジオ英会話で英語の過去形と完了形の違いについて説明されていて、それがなんとなく心に残って、温泉や古墳をめぐっている間ずっと頭のなかをグルグルしていた。どうも音声情報がグルグルする質らしく、ちょっと気になる音楽を初めて聞いた後とかは数日間それがずっと頭の中をリピート再生されていたりします。それで、ラジオ英会話によると、過去形と完了形は日本語訳にすると「だった」だが、過去形は過去のある一点の出来事を語っているにすぎないのに対して、完了形は現在への繋がりとか近づいてくる感じを伴うという話だったと思う。

 ここらへんは歴史の面白さにも似ている気がします。過去のいっときに何かが造られて遺跡として残った、その事実だけ(過去形)では単に遺跡や遺物の珍しさにしか目が行かなくて、観光としては満足するけどそれで終わりになってしまう。でもその遺跡や遺跡を造った人の考えとかが現在にまで何らかの影響を残していたりすると(完了形)歴史が生きている感じがして面白くなる。このへんは具体例をあげるのが難しいのですが、そんな感じです。

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▲万寿森古墳

 湯村温泉の古墳で言えば、現代的温泉街に古墳があってそれなりの存在感を放っているだけでもじゅうぶん面白いのではないかと思う。付け加えるなら、例えばこの万寿森古墳は江戸時代には火薬の貯蔵庫として使われていたり、昭和の頃にはホテルの物置になってたりしたらしい。ただし江戸の幕藩体制も、昭和のホテルも、古墳より先になくなってしまった。

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▲加牟那塚古墳

 加牟那塚古墳は、木とかは生えてないし石組みがきれいに整っていてなんとなく大事にされてるっぽさがある。自治会のゴミ置き場になっていて、ローカルなランドマークの正統的使用法という感じがする。

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▲加牟那塚古墳のかつての正面

 

古墳の多さを知る人よ

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子供の頃、秩父は「ちょっとお金のある東京の人が行く観光地」というイメージだった。もしかしたら軽井沢あたりと間違えていたのかもしれない。言い訳をすると、西日本の小学生には「埼玉の西の山の中」と「群馬の西の山の中」の違いは区別が難しいのです(割と事実だと思う)。あと付け加えると、どっちも西武が開発に絡んでて雰囲気的に似てるというのもあったかもしれない。

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▲あの橋。2011年。

進学して東京に出てからようやくわかったことによると実際のところお金持ち向けの軽井沢みたいな場所ではないです。ちょっと観光地があってそれなりに人が住んでる普通の町。ただ地形のせいか西日本とは違うという印象がありました。つまり盆地ではあるのだけれども、盆地の底が平らではなくて荒川に削られた河岸段丘で階段状になっている。そのために平地が狭くて田んぼが少ない。いっぽうで西日本の多くの盆地では、と一般化できるのか知らんけど、底が平らで広い田んぼになっている場合が多い気がする。

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▲底の平らな西日本の盆地、奈良盆地。珠城山古墳群から。

秩父の盆地のイメージについて以下のような脚本家の文章を引用をしてみる。というのも最初に秩父に行ったきっかけがおそらく「あの花」のアニメだったからです。(が、もしかしたら違うかもしれない。いまはひとまずどちらでもよい)

秩父は周囲を険しい山に囲まれ、農作物などを育てるには過酷な状況だ。秩父事件の発端も養蚕がらみだった。生活の糧が途切れた彼らにとって、やたらと濃い青をした盆地の山々は、いつかの私が感じたように逃げられない檻のように見えたのではないか。(1)

「険しい」「過酷」で「逃げられない檻」とまで言うのは、引用文のさらに前段を踏まえる必要があるけれど、秩父特有の切り立った崖や平地の狭さをよく言い表しているようです。もちろん盆地ならばどこもどこも山に囲まれているし田舎ならば隔絶された感じはあるけれど、底が平らな盆地は雰囲気が穏やかなので「檻」という表現になりにくい。

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大野原古墳群4号墳。

ここから古墳の話をしたいのですが、大掛かりな農業に向いていないせいか地理的に隔絶されていたためか、秩父には古墳時代の前半の古墳がなくて、後半のものだけがある。しかもサイズが小さい。ただしこまごまとした古墳がそれなりの数残っていて、それも森の中に埋もれているのではなくて人目につく場所にあったりするので、古墳時代的僻地でありながら見どころがあります。以下は列挙。

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大野原古墳群6号墳と7号墳の並び。石室に入れる。

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▲同9号墳。雑にフェンスで囲われて、崩れかけの覆屋で石室が保護されて(?)いる。隙間から覗いたらきれいな石積みが残ってるっぽい。

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▲同10号墳は公民館の駐車場にある。知らなければ踏みそう。

大野原古墳群で見つかった蕨手刀は信州から流通してきたものらしく、十石峠(現代では国道299号)を越えて持ってきたものかもしれない(2)。飛躍して想像すると、古墳時代秩父人は秩父山地を拠点にする山の民であったかもしれず、あるいはそうであってほしい。当時の秩父は単なる古墳文明の後進地ではないと言ってみたい気分がある。古墳ピープルは空の青さを知るか。

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▲大塚古墳。「秩父地方の代表的古墳」とのこと。(3)

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▲大堺2号墳。完全に民家の庭の一部になっている。

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▲飯塚・招木古墳群のうちのひとつ。下草がなくて見通しがよく、林の中にポコポコと円墳が並んでいるのが静謐な印象で良いです。


【参考・引用文献】
(1)岡田麿里『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』文藝春秋、2017
(2)黒済和彦『ものが語る歴史39 蕨手刀の考古学』同成社、2018
(3)野崎正俊『探訪武蔵の古墳』新人物往来社、1998
(4)塩野博『埼玉の古墳[比企・秩父]』さきたま出版会、2004
古墳の所在地については、埼玉県埋蔵文化財情報公開ページ(http://extra.pref.saitama.lg.jp/isekimap/)を参考にしました。

ぐんまのよあけ

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低めの前方部と、細いくびれ部と、長い年月を経てやや崩れてなめらかな曲線になった斜面。古墳に限らずだけど、設計の美しさに年月が程よく加わると発酵食品のように旨味が出てくるのです。前橋八幡山古墳。原形がしっかり残っていて、しかし年月相応にシワシワになって味の出た、古漬けのような古墳。

これとほぼ同時期の古墳時代前期に、現在のほぼ群馬県の領域(以下グンマーとします)に古い前方後方墳(後円墳でない)が散在しています。

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▲元島名将軍塚古墳。

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▲藤本観音山古墳。

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▲寺山古墳。

これらが造られる以前に古墳はなく、したがってこれらがグンマーの古墳の先駆けである。最初の古墳を造った初代群馬県民(ということにしたい)はパワフルな移住民でもあったらしいです。

三世紀前半になると、上毛野と北武蔵の低湿地には東海西部系の外来集団が大量に移入してきた。(1)

それまで住んでた先住民は湧き水の近くで自然に流れる水で農業をして暮らしていて、川沿いの水浸しの湿地を田んぼにしようというつもりはなかった。あるいは開発できさえすればいっぱい米穫れるじゃんと思いつつも、土木技術がなかった。

そのグンマーの未開の低湿地に、あるとき大量の名古屋人(ということにしたい)が、大量の農作業具を担いで、当時としては最先端の土木技術を持って押し寄せてきた。その技術というのが、古墳時代にこんなことできたのかとちょっと驚いてしまったほどのものです。いや、古墳造れるんだからできるんだ。なるほど。玉村町砂町遺跡の例ではこういう感じです。

①湿地中の樹林を伐開→②小溝(幅1m、深さ50cmほど)を方格状に繋いで余水を小河川に排出・半乾燥→③長大な水路(幅3~10m、深さ1m)を開削して系統的な用水を確保しつつ水田化を促進

大水路は延長数kmに及ぶ可能性があり(2) 

 そうして未開の地グンマーをまたたく間に時代の最先端をゆく産業地帯へと変貌させ、その記念碑として東海人好みの前方後方墳を築いた。我々はその記念碑を見ているわけですね、今や古漬けになってしまったけれども。

この東海からの移住はかなりの苦労があったようです。弥生時代の終わり頃から「過去7800年間でもっとも長くきびしい寒冷期」(3)というほどに寒冷化が進んで、農業が打撃を受けて、例えば岐阜県では少し後の時代だけれども、農耕ができなくなった痕跡があるらしい。(4)そういう絶望的な状況を打開すべく少しでも可能性のある土地を探して、町ぐるみで移住した。パワフルというか、実際には悲壮と言ったほうがいいのかもしれないです。

ここに人が住んで発展して東国という領域ができて、武士がいっぱい出てきたり幕府ができたり東京になったり首都圏や関東という現代の地域意識みたいなのにつながっているとすると、風が吹けば桶屋が儲かるレベルの話になるけれど、古墳時代の開発者のおかげで東京があると言えなくもない。そう思って見ると、初代グンマー開拓民はじつに偉大であるようです。


参考文献
(1)若狭徹『古代の東国1 前方後円墳と東国社会』吉川弘文館、2017
(2)若狭徹「耕地開発と集団関係の再編」『古墳時代の考古学7 内外の交流と時代の潮流』同成社、2012
(3)坂口豊『尾瀬ヶ原の自然史 景観の秘密をさぐる』中公新書、1989
(4)岐阜大学プレスリリース「古墳時代の気候変動と人間活動の密接な関係 大垣市荒尾南遺跡の花粉化石が語る歴史」2019年10月27日閲覧 https://www.gifu-u.ac.jp/news/research/2019/09/entry09-7423.html

ちはら台の古墳

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京成千原線ちはら台駅徒歩5分のちはら台公園の中にある古墳広場。ニュータウンの中にありながら前方後円墳を含む古墳が密集しています。等間隔に並ぶ円墳の稜線が波打っていて庭園の一角のような風景であり、古墳が並んでいるというだけでじゅうぶん都市公園の景観として成立している。というか古墳群が山の中にあってもなるほど古墳群だというだけで終わってしまうのだが、都市の内部に取り込まれていることで現代的な意味が加わっているという、そんな感じです。

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▲ほどよい木陰がある。

この広場を含む台地上は旧石器時代から平安時代までの遺跡が密集していて、さらに現代のニュータウンが重層している。千葉県民の万年単位のスクラップ・アンド・ビルドの歴史です。古墳時代だけを見ても前期・中期・後期の各年代の古墳が混在していて、公園の中心にある前方後円墳の草刈11号墳は後期の築造であり、古い古墳N029とN030を破壊した上に築いている。

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▲くびれ部の半壊させられたN030古墳はわずかに現存しているとのことで、左手前の盛り上がりがそれかもしれない。

あるいは草刈5号墳は古い古墳の上にもう一度土を盛り直して新しい古墳にしたという、なんかすごい使い方をしていたらしい。らしいというのは、その5号墳は削平されて既に無い。じつにスクラップ・アンド・ビルド、歴史の流れの中にある。

 

参考文献
(1)千葉県教育振興財団文化財センター編「千葉県教育振興財団調査報告書第567集 千原台ニュータウンXVI―市原市草刈遺跡G区・古墳群(P区)―」平成19年
(2)千葉県文化財センター編「千葉県文化財センター調査報告第479集 千原台ニュータウンXI―市原市草刈遺跡C区・保存区―」平成16年