御殿場の古墳と双子山

土日に限って雨続きの梅雨とそれに続く猛暑で外に出る元気がなくて、エアコンの利いた室内で快適にボケーとする夏です。パソコンを見ていると、Googleマップに表示される古墳が増えてる。おかげで衛星写真で墳丘の様子を観察するのがマアマアな暇つぶしになります。ありがたいことです。

その暇つぶしの一環で未知の古墳を求めて御殿場のあたりを眺めてたら意外なことにいくつか古墳が表示されていた。なんで意外かというと、富士山の麓なのです。孫引きですが以下。

火山灰やスコリアなどが堆積し、吸水性の高い特徴をもつ土地が多くなっている。このため、水田耕作に適した土地が少なく、弥生時代から古墳時代にかけては遺跡数が少なく、土地利用が難しかったことを示している。(1)

いかにも古墳なんてなさそうな感じです。しかし、群馬などは火山灰の下に古墳が埋まってたりもするし、引用にある少ない遺跡というのがまさにマップに表示されているのかもしれない。そこで調べてみたのですが、結論を先に述べますと、古墳じゃない可能性が高い。

御殿場に古墳の名のつくものは数多くあるが、実際はそのほとんどが泥流丘で、確実に古墳であるといえるものは、古墳時代後期(七世紀)の大沢原の小円墳など、全部十基にも満たないのではなかろうか。(2)

今からおよそ2900年前に富士山が地震かなにかで山体崩壊を起こして(御殿場岩屑なだれ)、水と混ざって泥流となって流れ下ったのが御殿場泥流であり、そのときに取り残されたのが泥流丘である。(3)

御殿場市街地の周辺には、塚原や塚本など塚のつく地名が多数ある。(中略)これらの地域には長径二〇~三〇メートル、高さ五メートル程度の小丘が多数分布する。(3)

まさに古墳と同じくらいの大きさの丘があるのです。

また、泥流丘のほかに、江戸時代の宝永噴火のときに降り積もった火山灰を寄せ集めた砂山もある。宝永噴火のときの御殿場は相当な被害があったようで、田畑に大量の火山灰が積もり、食料が尽き、餓死者を出しながら復旧工事をした。(4)そのとき田畑から掻き出した砂を集めて盛ったようです。

御殿場市(5)には「砂よけの塚」という写真が掲載されていて、見た目は古墳と言われても違和感のないものです。ただの砂山ではあるけれども、御殿場の汗と涙が染み付いた、古墳以上に重い歴史を背負った史跡と言えるのかもしれない。

以上のようなわけで、Googleマップ御殿場市内に古墳として表示されているものの多くは古墳ではないかもしれないです。一方で市史に古墳であると確定的に書いてある大沢原古墳群については2019年8月時点でマップに表示されていない。その2点を考えるとマップの古墳についての表示は現時点では眉毛を唾でしっとりさせる程度の慎重さで見る必要がありそうです。なんでもない砂山を見ていたとしても、それはそれで歴史がある土盛りなのだから興味深くはあるけれど。

   * * *

ところで話題が変わりますが御殿場といえば富士山が見えます。日本一大きく土が盛り上がっている場所。その脇にある双子山(二ツ塚)は土盛りマニアにとっては中々ワクワクするスポットのように思われます。高いところならば涼しいのではないかと思いついて登ってみた。

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▲御殿場口から登り始めてしばらく進むとまず目の前に現れる富士山-宝永山-双子山の並び。超巨大円墳4基が直列に並んでいるかのような美しい土の盛り上がりです。

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▲二子山の間にある鞍部は美しくくびれている。まるで前方後円墳のくびれ部のようです。西都原古墳群のくだりで書いたようにこの滑らかさが良いのです。すべすべしている。

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▲上塚から見下ろす下塚。長い年月を経て角が滑らかになった古墳のような見た目です。しかもサイズは古墳よりはるかに大きい。良い盛り上がりですね、火山と古墳は何か通ずるものがあります。

【参考文献】
(1)高橋一夫、田中広明『古代の災害復興と考古学 (古代東国の考古学 2)』高志書院、2013
(2)御殿場市史編さん委員会『御殿場市史 別巻Ⅰ 考古・民俗編』御殿場市、1982
(3)日本大学文理学部地球システム科学教室『富士山の謎をさぐる―富士火山の地球科学と防災学』築地書館、2006
(4)都司嘉宣『富士山噴火の歴史: 万葉集から現代まで』築地書館、2013
(5)御殿場市史編さん委員会『御殿場市史8 通史編 上』御殿場市、1981

つらみ/つらつら

つらみ  つらいこと。つらい気持ち。(デジタル大辞泉

これまで生きていてつらみを感じていた期間を感じていなかった期間で割ったものをつらみ係数とするならば、わたしのそれは1を超えているのです(面倒な話だ)。なにしろ生まれてすぐに七歩歩いて右手で天、左手で地を指差し、「天上天下唯つらい」とつぶやいてため息をついたという。嘘だけどさ。

つらければ酒を飲む。人が酒に浸るのはいまに始まったことではなくて、古来酒飲みピープルは酒を飲んだ。古代の酒はアルコール濃度がいまよりも低かったらしいから、ちょっとずつ染みるように酒を飲んだのでしょうか、じつに金曜日の夜という感じがする。現代でも金曜日は染みるように酒を飲む。つらつら酒飲みパーソンの大先達であるところの大伴旅人に曰く、

なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染みなむ

半端にニンゲンなんてやってるくらいなら酒壺になってしまえばよいのだ、そしたら全身に酒が染み込んでくるから。酒飲みの鬱屈。

万葉集』の素朴で力強い歌風は「益荒男振り(=ますらおぶり、男性的でおおらかな歌い方)」と呼ばれる。私たちの胸に直接訴えかけてくるこの力こそ、「歌」そのものがもつエネルギーであろう。角川書店. 万葉集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) (Kindle の位置No.3657-3659). 角川書店. Kindle 版.

直球のエネルギーというのが、最近のTwitterとかのあえて馬鹿っぽく大げさで直球なパワーワードを投げつける表現がなんとなく似ている気がして、万葉集って現代のネット文化と親和性高いのではないかと思ったりなどします。こんなのもある。

川の上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は (春日蔵首老)

これ現代ネット文っぽいじゃん。って初めて読んだときに思ったのです。思わぬですか。まあどっちでもいいですケド。つらつら椿。つらつら。つらいわけではない。漢字で書くと「列列」であり、椿の並木が並んでいるかもしくは重なり合って咲いている様子らしい。他にも表現はあるに違いないのに敢えて選ばれたつらつらです、1300年の時を経てなお鮮烈に突き刺さる。

この歌が気に入ったので旅行のついでに寄り道をして歌の舞台である巨勢に行ってみた。奈良県吉野口駅のあたりだというネット情報があり、またその阿吽寺の椿が有名らしいのでお参りしたのだが、

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ほとんど散ったあとだった。つらつら。つらみの方の意味において。ちなみにわたしは山茶花より椿が好きです。なんでかというと花がいきなりボトッて落ちるから。はらはらと一枚ずつ散る儚さなんていう感傷を見る者に与えないのです。絶対に散るぞという強いパワーがある。

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▲手水に椿が浮かべてある。

奈良県まで来ておいて肝心のつらつら椿を見ることもできず、それじゃ仕方ないので帰り道に古墳がつらつらしている新沢千塚古墳群に来た。500基以上の古墳がひとつの丘に葡萄の実みたいに連なっているつぶつぶ感がとても良いです。衛星写真でどうぞ。

前回来たときには工事中だった道路の南側の群が整備されて公園になっておりました。おかげで古墳の連なりがいっそう見やすくなっていた。が、これまた前回来たときにもそうだったのだが、上空からでなく地面にくっついた状態で写真を撮る場合に、このつぶつぶ感を上手く表すことができないのである。歩きながらあっちこっち見てるときはすごくつぶつぶ感を感じるのに写真で切り取るとダメなんですよね。なにごとも上手くいかないものです。つらつらのつらみ。

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▲古墳がつらつらしている。

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▲つぶつぶしている。

 

掘ったり沈んだり

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そのうちに見に行こうと思ってた利根川の開削地点。むろん行ったところで、いかにも利根川という感じの高い堤防がひたすら続いているだけで、それはそれで見ものと言えるかもしれないけれど観光地的な何かは無いです。でもここをブチ抜いたことによって生まれた文化とか江戸―東京への影響とかを考えると日本史上の一大事が起きた場所と言えるかもしれない。

大雑把にまとめると、もともと、江戸時代に入る前は(古墳時代も)利根川加須市のあたりから東京湾に向かって南へ流れていた。今の利根川下流側は利根川水系ではなくて常陸川というそれほど大きくない川で、それと鬼怒川、小貝川が合わさって香取海(当時はデカかった霞ヶ浦)に流れ込む。ふたつの水系を分けていた分水嶺が栗橋の東側、一番上の写真のあたりというわけです。家康が江戸に町を作り始めると、江戸を水害から守ることとチバラギ方面からの水運を通すために(他にも説はあるらしい)利根川を現在の流路に付け替えることになり、大小種々の工事で徐々に流れを変えた。中でも分水嶺をブチ破って利根川常陸川をくっつけるのが一大イベントで、これによってほぼ今の利根川の流れができあがった。と、いうことらしいです。人力でやったのすごい。

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利根川ブチ抜きの概略図

江戸が水害から守られ物資が流入したことで発展して現在の東京があり、あるいは流域から江戸に運ばれた醤油で寿司や蕎麦なんかの江戸料理が発達した。関西その他から見るとどれも東京ローカルにすぎないとも言えるけれども、しかし現在の日本全国に影響を与えているという点で、やはり日本史上の出来事という気がする。

この分水嶺ブチ抜き地点、利根川(赤堀川)を挟んで南北に古墳が残っています。今は橋を渡らないといけないけど当時はひとつの台地で繋がっていて、おそらくご近所さん、隣村、という程度の関係だったかもしれない。

北にあるのが駒塚古墳。東北本線の西側にあり背後を列車が行き交う。

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南は穴薬師古墳。施錠されて入れなかったが覗いたらきれいな切石の横穴式石室だった。

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ところで古墳というのは低地にはあまりないです。川が氾濫して流されるわけにはいかないので。ことによると低地に作ったのが流されちゃったということがあったかもしれないけれど、流されたので今は無い。このふたつの古墳も一応台地上にあることになってるのですが、武蔵野台地を見慣れた目ではこのあたりの地形はちっとも台地っぽくない、ほとんど平らだ。よく見ると古墳の近くに段差があるけれどこれ段丘なのかな。よくわかんない。一番低いところではないとは言える、微高地です。上の穴薬師古墳の写真では階段5段分の段差がある。

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▲駒塚古墳の近くにある段差。微高地って感じ。

それで調べたところによると、このあたりの地面は沈んでいる。関東造盆地運動、それですね、関東平野の中心が沈降して縁が隆起している。その中心がこのあたりということで、台地が沈んでその周辺が堆積作用で埋まったために標高差がなくなってしまったようです。もうちょっと西の加須のほうへ行くと台地の上面が地面よりも低い(埋まってる)ところもあるらしい。そういう高低差があまりない土地ゆえ、古墳を造る場所としては「頑張ってこれ」という精一杯の高さだったのであろうし、川を付け替えるにあたっては台地といえどもわりとブチ抜きやすかったのかもしれません。そこに目をつけた江戸幕府としては都合が良く、目をつけられた古墳時代人にとっては隣村が利根川の向こうになってしまった。じつに歴史という感じがある。

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東北本線の鉄橋
  • 参考文献

今回はネットで公開されてるやつです。ciniiの検索でたどれます。
松浦茂樹(2015)「関宿から利根川東遷を考える」水利科学 342
堀口万吉(1981)「関東平野中央部における歴史時代の沈降運動と低地の形成」アーバンクボタ19

その古墳入るべからず

古墳。しばしば山とか林とか田んぼの中にある。ほんとのただの山ならまあいいかって気もするけれど(それとて微妙だが)私有地かもしれないところは入っていいものかどうか。

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▲寺谷銚子塚古墳は林の中

 近くで見て葺石がとか段築がとか、やりたいじゃないですか、やりたくないですか。まあどっちでもよいのだけれど、写真撮りたいし、あわよくば登りたい。でも公園として整備されている古墳以外(ほとんどそれだ)は、もしかしたら入っちゃいけないのかもしれないし、別に構わないのかもしれないし、分からないので、墳丘を遠目に見ながら悩むことになる。

いつまでも悩んでるのはアレなのでちょっと調べてみました。(しかしここに書いてあることは間違いかもしれず、正しくは参考文献をあげておきましたのでそれを読むか専門家へご相談ください。)

まずネット情報によると侵入に関することは軽犯罪法と刑法第130条に書いてあるらしいのでそのふたつを読んでみることにします。

(1)軽犯罪法 第1条第1号
人が住んでおらず、且つ、看守していない邸宅、建物又は船舶の内に正当な理由がなくてひそんでいた者

この法律は廃墟マニアの無断立ち入りに適用された例があるらしい。古墳もまた廃墟的な建物と言えるのかもしれないし、言えないのかもしれない。建物の定義がはっきりしないけれども、仮に古墳が建物に該当するならば、古墳の石室内に勝手にひそんでいたら通報されるかもしれないということのようです。

(2)軽犯罪法 第1条第32号
入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入つた者

立入禁止の場所に入ってはいけない。立入禁止の定義は、立札・貼紙・柵・垣根など、あるいは口頭で立入禁止が表明されていること。どれくらいの柵とかがあれば立入禁止が表明されてることになるのかはっきりしないけれども、ネット情報によると、常識的に見てダメっぽい雰囲気が感じられるならダメっぽい。とすると、フェンスの出入口が開いていたとしても入ってほしくなさそうなら入らぬが良い。あるいはオープンな公園であっても「古墳の上にのぼってはいけません」みたいな立札があるときは立入禁止かもしれない。

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▲吉岡大塚古墳は整備中で立入禁止だった。明らかに入ってはいけない。

また、田畑に入ってはいけない。田畑は果樹園も含み、そのときたまたま作物が植わっていなくても田畑とするようです。これは例えば古墳へのアプローチが田んぼや畑であれば、無断で入ってはいけないし、墳丘上が畑になっているならば登ってはいけないということになりそう。

つづいて、

(3)刑法第130条
正当な理由がないのに、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは艦船に侵入し、又は要求を受けたにもかかわらずこれらの場所から退去しなかった者

まず住居ですが、「人の起臥寝食に使われる場所」が通説とのこと。なので住居への侵入は人が起臥寝食しない古墳には関係なさそうですが、土管の入り口を筵で仕切って住んでいるのが住居とされた判例があるらしく、したがって横穴式石室の入り口に仕切りをつけて住んでいる人がいれば住居になりそうであり、勝手に入れない。その場合は屋根の上も住居の扱いになるのでもしかすると墳丘にも登れない。また、適法に住んでいなくても住居とみなされる。勝手に住み着いちゃった古墳おじさんみたいのがいたら近づかないほうが良いです。

人の看守する邸宅、建造物というのが難しいですが、住居以外の建物で、柵があるとか施錠されているとか守衛さんがいるとかで「看守」されているならば入ってはいけないということのようです。これも仮に古墳が建造物だとすると、石室に柵があったり施錠されてたら入ってはいけないことになる(常識として当たり前だ)。また邸宅には建物の付属地(囲繞地)が含まれる。建物のある敷地をぐるっと柵で囲ったりして建物のひとつながりの土地だとわかる場合は邸宅の一部になる。なので、柵で囲われた土地に古墳と建物が並んでいるような場合、家の裏手に古墳があるとか、は入れないかもしれない(これも雰囲気からして法律以前に無断侵入していいとは思いにくいが)。一方で、家の隣に古墳があるような場合でも、特に囲われたり付属地だと示されていなければ入ってもいいかもしれない。

しかしやはり、私有地で好き勝手されて嬉しい人はいないし、入るのが歓迎されていない感じの古墳では法律がどうという前に勝手に入らぬがよかろうと思うものです。結論はあいまい。

ところで写真の吉岡大塚古墳。古墳を整備してる現場を初めて見たんですけど、現代技術できれいに復元されていくのはすごいですね。古墳は造れる、カワイイは作れるって感じです。

以下参考文献です。
山口厚『刑法各論』第二版、有斐閣、2010
山中敬一『刑法各論』第3版、成文堂、2015
伊藤榮樹原著、勝丸充啓改訂『軽犯罪法』新装第2版、立花書房、2010

糸静線のむこうへ

糸静線を越えたい。というのが最近の休日にどこか行くときのキーワード的なやつなのである。別に深刻な話ではなくて、日常(さらに限って言えば、仕事)からできるだけ遠いところに逃げたいということです。はたらきたくないだけ。

じゃあ逃げるってのは、どこまで行けば逃げ切れるのさ。隣駅まで行けばいいのか。市外へ出ればいいのか。県外へ出ればいいのか。むろん日常(繰り返し言うと、仕事)から逃れることは不可能でいつか戻らなければならないのがつらい、つらいですね、困ったものだね、ともかく個人的な境界線を関東平野の端っこに置いていた。関東平野がどこからどこまでを指すのかよくわからないけれど、大雑把には東京なら高尾山を過ぎて小仏峠を越えるあたりですか。神奈川なら箱根ということにしよう。

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▲酒匂川のむこうに箱根。あれを越えたら関東平野を脱出できるのか。

これは根拠の曖昧な話なのですが、西日本のさして急峻ではないとはいえ山に囲まれて育った人間にとって関東平野は平らすぎるのです、広いのです。千葉県あたりに住んでいた頃はもともと香取海だったはずのあのだだっ広い平らな土地を見てじつに地の果てまで続いているような気がしていた。平野の向こうにぽつんと筑波山だけ小さく見えて、山はあまりにも遠く少ない。だからそう、関東平野から抜け出したかった。おことわりしておかねばならないのは、別に関東も千葉県も香取海沿岸のことも嫌いではないし良い土地に違いない、ただ観念的には抜け出さねばならないということです。複雑なのです。

ところが、いろいろやっているうちに次の疑問が出てくる。ひと山越えて例えば山梨あたりに行く。富士山の麓に行く。するとどうも関東から抜け出した気がしないことがある。慣れてしまってより強い刺激を求めるようになってしまったのか。いや、そうではなくて、もしかしたら関東平野と地質的にひとつながりになっている土地だからなのではないか。つまり、箱根を越えたとしてもフォッサマグナの凹みから抜け出せたわけではなく、関東平野的風景から逃れきれていない。ではどこまで行けば逃げ切れるのか。

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▲富士山はフォッサマグナの凹みの中に。

ここで、以前からなんとなく思っていたことがあるのです。東海道線を西へ下っていくと、安倍川を越えて薩埵峠をくぐったあたりで、ふっと急に風景に西日本の匂いがしてくる。西日本の匂いとは何かというのは適当な話なので訊かないでほしい。低い山がぐるりと囲んでいるのがそれっぽいのかもしれず、後付けで言うと、地質的にはここがフォッサマグナの西縁すなわち糸静線なのであるという、そのことです。ここを境にして東西の成り立ちが違う。ここから西は西日本も含めてひとまとまりになってる。

ただ、焼津というのは南が開けて平らで海につながっている。これはなんとなく相模っぽい感じもして、もうほとんど言いがかりなのだが関東平野っぽさから逃れきれていない。じゃあどうすればいいのか。もう少し西に行こう、掛川までいけば盆地だから山に囲まれている。大井川を渡り、遠江に入ろう。

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掛川城から。山にかこれまれている。

ここまで来るとなんだか落ち着いた気がします、あの山の向こうに東京があるとか横浜があるという感じはしない。おそらく山の向こうにはさらに山があり、熊かなんか住んでいるに違いない。海の匂いもしない。掛川の中心部から北西方向へ向かい原野谷川の橋を渡って堤防上を走っているときなどは、風景は熊本の菊池川沿いとか、近畿地方の小盆地を流れるもろもろの川にも似ている。ついに西日本的風景のある領域にやってきたのであり、窓を開けて入ってくる風にも仕事の匂いは混じっていないように感じられる。二日間しか逃避できないとはいえたいへんよろしい。コーヒーがおいしい。

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▲春林院古墳から原野谷川を見下ろす

この川沿いの低地を見下ろす台地の縁に春林院古墳があります。お寺の裏山で、墓地の中を通って墳丘へ登れるようになってる。墓地を通る前にお参りしておこうと思ってお寺に行ったら、お坊さんが出てきて「どうぞお入りください」と言って、縁のない土地なので遠慮するところはあるものの、上がってお参りした。11月のいかにも晩秋という感じの風が吹いて、川の堤防あたりで何かを燃やす煙が立っていて、勝手に西日本的と思うところの風景でもあり、のんびりしている。仕事は今でも糸静線の向こうでぐるぐると渦巻いているに違いないが、こちらはもはや安全地帯、背後の古墳のことなど考えているだけでよいのである。

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▲春林院古墳は円墳

 

かわいいあの子は摩利支天

秋が来たら白河関を越えようと思っていた。能因法師の有名な歌ですけれども、これがなんか、気になっていた。

都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関

山を越えて平野に下りてきて、色づいた黄色い田んぼの稲穂が揺れる、村があり家があり、古い関の跡地、何もない空き地に秋の匂いのする風が吹いている、みたいな風景が、行ったことはなくて適当に想像で作っただけなのだが繰り返し頭の中で流れては消えていく。今年の夏はグエェって唸るほど暑かったですからね、きっと意識的にか無意識的にか秋が恋しかったのであろう。

そして秋が来たので白河関に行こうとしていたのだが、理由もなく思うには、関を越えて陸奥へ行こうとするものが下毛野の古墳を未だ見ていないのはいけない。この思考に脈絡はなく、なんとなく猛暑でぐにゃぐにゃになっていた脳味噌がふわっと演算をしたところそうなったにすぎない。しかしながらまず下毛野の古墳を見ねばならないことになったので、当地の中心地にして最大級の古墳であるところの、小山のふたつの古墳にやってきたのである。

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琵琶塚古墳。墳丘に生えてる木が、生やしっぱなしでもないし、シンボル的に数本だけ残すわけでもなく、完全に切って往時を再現したのでもない。疎林。これは珍しい気がする。保存上または景観を考える上で何らかの理由があったのかもしれず、それならば資料館のおっちゃんに話を聞いておけばよかった。シルエットはなんとなく関東でよく見るような感じだなあと思ったのだけれど、形式学的に裏付けのある話ではないです。のっぺりした感じが6世紀っぽい。

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摩利支天塚古墳。こっちものっぺり系かと思ったけれど、前方部に登ってみたら思いの外くびれのところがキュッとしててシュッとしたシルエットです。ここに立って後円部の偉い人を崇めようという気分が高まる。鳥居が前方部にあって摩利支天の本堂が後円部にあるという配置も、いつの時代の人によるものかは分からないけども、良いのです、崇めたくなる。琵琶塚よりも古いらしく、5世紀築造とのことで、シュッとしたシルエットは古式が残っているためかもしれない。

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あと、関係ないけど墳丘の下にいた野良猫がかわいいヤツだったので勝手に写真のモデルにした。名前は知らないし教えてもくれないので仮に摩利支天キャットとします。

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琵琶塚の反対側です。二車線の県道のある台地上から見ると古墳を少し見下ろす感じになり、ということは古墳のある場所は付近の最高所ではない。古墳って高いところにあるイメージなのでちょっと変わってる感じはする。ただしもしかしたら珍しいことではないのかもしれず、適当に思っただけにすぎない。

最後にどうでもいい話ですがこの近辺にある甲塚古墳というのがラブホに接してるらしいですね。ラブホの窓から古墳が見えるのはとてもナイスな感じがするのでいずれ再訪しようと思います。

古墳がギュッ☆とクビれたら

宮崎は古墳が多い。なんでかは知らないけど、ともかく多いので、衛星写真をご覧ください。たいへんワクワクします。


▲西都原古墳群第2支群


▲西都原古墳群第1支群


▲持田古墳群


▲川南古墳群

(ヤバさに気づいてしまったあなたはもう終わりだ……古墳見物に行くしかない……)

古墳文化の中心地であるところの近畿から遠く離れているのになんでこんなに大きな古墳が多いのか理由がはっきりしないようなので、とりあえず当時の宮崎県民がやたらと古墳好きだったということにすればよいのではないかな(してよいのか?)。中央政権とのつながりで造らざるをえなかったとか言うと辛気臭いじゃないですか、そんなのより宮崎県民全員が上も下も古墳のことを考えない日はないレベルで熱狂して、趣味は古墳、寝ても覚めても古墳、みたいになってたほうが愉快な南国ピープルって感じで楽しい古墳時代になる。

そんなワクワク古墳ピープルの熱狂的建造物群を見物してきた。西都原の前方後円墳のすごくいいところは前方部が低くてクビレがはっきりしてるのが多いことです。というかそれがいいって気づいてしまったのです。以前から古墳はやっぱ前期型の前方部低いのが綺麗だよなあって感じはあったのだが、意識として形になってしまった。「これって……まさか……恋……!?」って気づいちゃったヒロインみたいな心境です。なので今回は初々しい前期型前方後円墳への恋の甘酸っぱさを表してみたいと思います。

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▲西都原古墳群109号墳

まず109号墳のサイドビューです。109号墳は4世紀末の築造、時期的には古墳時代前期なので前期型と言ってよいと思う。左が後円部で右が前方部。全体に傾斜が緩くてペタッとしている。特に後円部と前方部の間が低くなっていてクビレがはっきりしています。このクビレのところ登りたくなりませんか、なりませんよね、まあどっちでもいいんですケド。

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▲西都原古墳群265号墳

比較のためクビレがあんまりない古墳も見ておきますと、時代を下って265号墳、築造は6世紀、後期型です。全体が高くなって傾斜も急になって土盛りとしての存在感は増すけれどもクビレは目立たなくなって寸胴になりました。こうなるとここから登りたいとか、ここを握ってどうにかしてみたいという感情はちょっと弱くなります。あ、握ってどうにかしてみたいという感情、それですね、前期型はそれがあるのだ。猫の首輪のところをスベスベしたい感じにも似ている。なのでクビレのとこ太くなるとどっしりするのはいいけど困りますね。

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▲西都原古墳群100号墳

次は上に登ってみます。キリ番の100号墳です。前方後円墳は後円部がメインで後方部が儀式を行う場所、という説をとりあえず信じているので特段の用がなければ前方部からお邪魔しております。後円部の方向を見ると、なんかこんな生物がいたような気がしなくもない、平べったくてかわいいですね。視覚的にはクビレがあるために後円部の主役感が際立ちます。前方部の遠近感が強調されて、やや離れたところから観察しているような距離感もある。それが何かの目的あってのものなのか、あるいは意図などなかったのか、単に胸にキュッと来るから採用したのか。最後の理由なら現代人にもキュッと来させる効果はあるように思われる。

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▲話の飛躍。甲斐銚子塚古墳(山梨県)のクビレ

話は飛びますが、クビレのある美しさといえば山梨の甲斐銚子塚古墳はかなりのものです。大きいし、復元も美しい。サイドビューはクビレのむこうに八ヶ岳や茅ヶ岳の火山特有のなめらかな稜線が見えており古墳のなめらかなシルエットと相乗効果でまことによろしい感じがします。この景観設計はかなりのものと思う(勝手に思ってるだけだ)。ただし古代山梨県民は宮崎ほど古墳にラヴしてなかったので(たぶん)美しきクビレのある古墳は多くはない。余談ですが。

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▲甲斐銚子塚古墳のクビレサイドビューは八ヶ岳と茅ヶ岳が見える

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▲西都原古墳群46号墳

西都原に戻って46号墳。これは前期の終わり頃であり、次の世代への変化の兆しが見えるというようなことがなにかに書いてあった。たしかにサイドビューは少しモッタリしたシルエットでクビレのギュッとした感じが弱いようにも見えるのだが、

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前方部に登って見るとちゃんとギュッとしており安心感がある。むしろこの古墳はモッタリしていながらクビレがあり、美しさを損なう手前で踏みとどまりつつ重量感を見せるような効果が、狙ったか否かは知らないけれども、あるような気がする。

以上、甘酸っぱいクビレのラヴです。西都原古墳群にせよ、他にしても、宮崎は分布密度が高すぎてヤバくて、墳丘に登ると隣の前方後円墳の尻尾が見える。ほどよく首根っこを掴めそうな距離感。そう、そして、あなたがクビレを掴むとき、前方後円墳もまたあなたの心を掴んでいるのだ。