能登半島の真ん中あたり

今回の行き先マップ。能登半島の南半分くらいです。地図の真ん中に明確に断層があり、帯状の低地が半島を貫いている。ここが古墳時代には畿内と越後方面をつなぐ交通路として機能していたらしいという、そのことだけでも興味が湧いてきませんか。湧いてきますね。

もう少し細かく見ていくと、この低地部分のうち西側のいくらかについては、かつては邑知潟という大きな湖になっていました(今も痕跡程度に残っている)。また地図の右下にある氷見には十二町潟または布勢水海という内海があった。まだ馬や車がなく道も整備されていない古墳時代には効率のいい物資輸送手段といえば舟であり、手漕ぎの舟で安全かつ効率的に移動しようとすると内海や川をたどるようなルートをえらぶのがよく、能登半島の北の日本海をまわるよりも、(部分的に陸行が必要だけど)邑知平野を横断するのがよかった、と理解しています。

こういう内海や潟が古墳時代には各地に点在していて、舟を停泊させる港として交通の要衝になっていたり、人々の生活の拠点になっていたりしたようです。古墳時代の風景を想像するには良い場所なのです。
というわけで能登半島の南半分くらいをうろうろしてみた。

雨の宮1号墳。前方後方墳。前方部からの斜めビューがかっこいい。

1号墳の前方部から後方部を見る。どっしりとした重量感。

雨の宮2号墳。前方後円墳。5号墳の上から2号墳後円部を見る。手前に5号墳の埋葬施設跡。

まず最初にやってきたのは雨の宮古墳群。たくさんの古墳が群がっていて、中心になるのは前方後方墳の1号墳と前方後円墳の2号墳。どちらも復原整備されていて、かなりきれいな姿になっています。

1号墳のくびれ部から邑知平野を見下ろす。

そしてまたどちらの古墳からも邑知平野を眺めることができます。このあたりは邑知潟よりも上流で、分水界が近い。勝手に想像すると、邑知潟から川を遡ってきてもうこれ以上は遡れない、というところで荷物をおろして陸行に切り替える、そこに人が集まる拠点があり、集まった人に見せつけられるような古墳を造ったのでありましょうね。1号墳は形状や出土品から越後(新潟県)方面とのつながりが強いと想定されるようで、広域的に交流のあった偉い人の墓であるらしい。

院内勅使塚古墳。方墳。石室に入れる。

院内勅使塚古墳の石室内から外を見る。天井石が大きい。

東に進んで院内勅使塚古墳。こちらは時代的にはずっと後の古墳時代終末期、古墳の形はこの時期流行りの方墳になり、大きな石材を使った横穴式石室が開いている。写真では撮りきれなかったけれど、天井石の大きさはなかなかの迫力です。これを運ぶには相応の権力&マンパワーが必要ですね。雨の宮1号墳からは300年ほど後に造られたものだけど、その頃になっても邑知平野は繁盛していたらしいと想像できます。

須曽蝦夷穴古墳。石室がふたつある。

さらに七尾湾を渡り、能登島へ。須曽蝦夷穴古墳。これも終末期の方墳だけど、院内勅使塚とは様子が結構違います。石室が2つある。さらに石室は板石を積み上げて天井はドーム状になっていて異国風で、高句麗(当時の韓半島北部)から来た人たちの墓ではないかという説がある。一方で、日本書紀にある粛慎との戦いで戦死した能登臣馬身龍のとのおみまむたつの墓という説もあり、その場合は地元の武将ということになります。被葬者像にずいぶん振れ幅があるような。ともあれいずれにしても「遠くへ行った人」という点では共通であり、また七尾湾の南側からぐるりと見える位置にあることからすると、海に関わって権力を持ったか尊崇されるような人の墓なのでしょうね。

桜谷1号墳の側面。前方後方墳

さらに南東へ。思うに東日本との交流を目指して西からやってきた人々は、邑知平野を横断し、再び舟で七尾湾に漕ぎ出し、さらに東へ向かうときにいちど氷見に寄港したのではなかろうか。その、おそらく重要拠点であるかもしれない十二潟沿岸の古墳。

桜谷2号墳の側面。帆立貝形古墳。

2号墳から1号墳越しに十二潟方面を見る。

まずは桜谷古墳群。内海の十二潟と富山湾をつなぐ水路(今はもう無いので想定上の)に姿を見せるように築かれたのであろうという。現に、かつて内海だっただろう平野はどちらの古墳からもよく見えます。古墳がひな壇状に築かれてるんですよね。墳丘はかなり削られてしまっているけれど、それぞれ前方後方墳と帆立貝形古墳の面影は残している。

柳田布尾山古墳は前方後方墳。前方部からの斜めビュー。

柳田布尾山古墳の前方部から後方部を見る。山を背負って神秘的な眺め。

同じく内海に面したところにある柳田布尾山古墳。こちらも前方後方墳。桜谷1号墳と共通設計で、同盟関係にあったのではないかという。まあ同じ内海に面しているしお隣さん同士、あんまりいがみ合ったりはしてほしくない。この同盟関係は富山の王塚古墳も同様らしく、富山湾沿岸にそういう商売仲間のグループみたいのがあったのかもしれない

 

〔参考文献〕
伊藤雅文(2008)『古墳時代の王権と地域社会』学生社
小黒智久(2023)『コシの古墳と地域社会』雄山閣

地図データは地理院地図を使用して作成