壁画と冠

年2回の虎塚古墳の壁画公開にいつか行こうと思っていた。のだけど、どういうわけかそのタイミングで仕事や用事にぶつかることが多くて、そうして行けないでいるうちに感染症が流行りだして公開中止になったり色々あって余計に行けなくなってしまっていた。このままだと機会を逃し続けて結局行かなかったみたいなことになりそうなので、壁画の本物は見られないにしてもとりあえず行ってみることにする。レプリカだけでも見れればいい。

5月初旬。勝田駅がごった返していて何事かと思って調べたら、近くにあるひたちなか海浜公園のネモフィラが見頃なのだそうだ。ずいぶん映(ば)えるらしいですね。とはいえ古墳を見に行くのだ。直行バスへ向かう列とは別れてひたちなか海浜鉄道に乗る。バスでなく鉄道でネモフィラを見に行く人もいくらかいるらしく、車内はほぼ満席だった。中根駅で下車、田植えが始まった田んぼを見つつ古墳へ向かう。

中根駅のあたり。

古墳は想像よりも大きくて形もきちんと残っていた。前方後円墳。石室の入口はむろん厳重に施錠されている。太陽光が林の新緑を通して差し込んで、景色が明るい緑色に染まる。古墳を見るなら冬、というのはたまに聞くしその通りだと思う(木の葉や下草が無くて視界が良い)のだが、新緑の頃もなかなかですね。景色としては新緑のほうがいい。

虎塚古墳、前方部斜め後ろから。

▲石室入口。

古墳の隣に埋蔵文化財センターがあり石室のレプリカが展示されている。実物は公開日に行ったとしても撮影禁止なので、自由に見られるこちらのほうが良い、と言えなくもない。現に結構ありがたい。

▲石室内部(複製)。

何が描いてあるのかぱっと見ではよくわからないけど、奥壁の左下の縦棒が並んでいるのは槍か鉾、その右は矢を入れる靫、手の甲を保護する鞆、右下に大刀が三口ある(1)。しかし正面の円環とかその上の砂時計みたいなやつはよくわからないらしい。上の方にあるギザギザは弥生時代以来のおなじみデザイン、三角文(鋸歯文:魔除け)。

この古墳時代以前のプリミティブな(といえばかっこいいが、ありていにいえば下手な)絵は良いですね。少し時代が下って高松塚とかキトラ古墳の壁画となると上手だし綺麗だけど、現代の我々と地続きな感じが出てくる。地続き感のない、遠く離れた感じが良い。

ところでよく考えてみると、古墳時代人はなんでこんなに絵が下手なのだろう。写実的に描く技法が未発見だというのはあるにしても、それ以前に下書きの線と塗りがずれていたり(左の円環)、三角文もフリーハンドで適当に描いていたりして、現代人の感覚でいうところの「きちんと」は描けていない。

しかしおそらく古墳時代人が美的に劣っているということはなく、例えば焼き物は上手だったりする。そもそも縄文時代からずっと粘土細工は上手いのだ。弥生時代人は青銅器を精巧に作るし。古墳時代は鉄器も。古墳や住居などの建造物も造れる。それなのに絵は棒人間のレベルからあまり進歩していないように見える。どうも三次元の造形は上手くて、二次元に写し取るのが不得手なのかもしれない。美術の発達過程でそういう必然があったりするのだろうか。そのあたりは美術史の研究がありそうな気がする。興味はあるけど調べられていない。

1500年の時を経て倭人は(というと主語が大きすぎるか)二次元表現に熱狂する民になった。時の流れは面白いものです。

▲立体造形は古来より上手い。縄文時代、上野原遺跡の水煙土器、山梨県立考古博物館。

今回のもう一つの目的は茨城県立歴史館で展示されている三昧塚古墳出土品を見ることでもあった。これもデザインに関係する。冠の造形が気になっていたのだ。

茨城県三昧塚古墳出土品 文化遺産オンライン

広帯二山式という形式の冠(2)で、その名の通り山が二つある。藤ノ木古墳出土の豪華なやつが有名だけどそれに比べると立体的な表現があまりなく、影絵のように馬の列が続く。この馬のデザインがかなりうまい具合にデフォルメされていて、その列が山を越え谷を越え(という意図かどうかはわからないが)進んでいる様子がなんかかわいい。古墳時代のデザインの中で好きなもののひとつ。

茨城県立歴史館に展示された実物。影絵のように透かしてみるとかわいい。

三昧塚古墳の墳丘のほうは6年前に行ったときの写真があった。霞ヶ浦の近くにきれいに復元されている。晴れた日のドライブにちょうどいいです。

▲三昧塚古墳、2016年。

〔参考文献〕

(1)稲田健一(2019)『シリーズ「遺跡を学ぶ」134 装飾古墳と海の交流 虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群』新泉社
(2)高田貫太(2021)『アクセサリーの考古学 倭と古代朝鮮の交渉史』吉川弘文館