桜土手古墳公園

▲桜土手古墳群29号墳と28号墳

こちらは秦野にある桜土手古墳公園。群集墳が6基保存されています。つまり小さな円墳がポコポコと並んでいて、きれいな公園に整備はされているけれど特に劇的な様相を見せているわけではない。ただし個人的にはこの28号墳&29号墳の墳丘に木が生えて「ムギュッ」て感じになっているのが好きです。全国に多数ある古墳の中でもなかなかのムギュり具合だと思う。

隣の博物館では古墳群の出土品が常設で展示されているほかに、企画展で市内の遺跡の出土品が展示されています。今は市内の縄文土器特集。形のいいのが多くて、秦野の縄文時代は意外と結構おもしろそうです。


 

八戸、末期古墳

八戸に行ってきました。行く前はもっと田舎だと思っていたのだけれど、思いのほか都市です。さすが県内第2の市です。丘に登ると向かいの丘にも家がいっぱい並んでるのが見える。

▲グレットタワーみなとから見る八戸

どうでもいいかもしれないけれど、八戸についての雑感を並べます。

  • 料理の味付けは濃いめ。
  • 魚がおいしい。
  • お酒もおいしい。
  • しかし飲み屋のお酒は高め。
  • 八食センターは楽しいしおいしい。

せっかく来たので(というかむしろ以前から来たかったのだ)、このあたりの古墳を見に行った。北東北は古墳時代的には辺境です。稲作はせず狩猟・漁労・採集がメインの続縄文文化であり、古墳を造らなかった。なんで古墳を造らなかったのに古墳があるのかというと、古墳時代がほぼ終わりかけの7世紀頃になってから稲作をするようになり、古墳も造るようになったらしいという、ややこしい話なのである。古墳時代が終わってから平安時代頃まで造り続けられたこの非古墳時代的古墳は末期古墳とよばれる。

▲阿光坊古墳群

阿光坊古墳群。八戸の少し北、おいらせ町にあります。杉林を切り開いて整備したらしい静かな風景になんとなく東北っぽさがある以外は、見た目には普通の群集墳。

▲阿光坊古墳群のうち、十三森(2)遺跡J10号墳。

近くの阿光坊古墳館に展示されている出土品も、土師器、須恵器、馬具、刀、勾玉etc…古墳時代の出土品セットという感じがする。土師器がなんか細長いのと、蕨手刀が多いあたりに独自色がある。

▲阿光坊古墳群出土、須恵器。

▲阿光坊古墳群出土、土師器。

▲阿光坊古墳群出土、蕨手刀。

同時期の古墳としては、八戸市内に丹後平古墳群があり、行ってみたけれど整備中で立入禁止とのこと。八戸市博物館に出土品があるので見てきました。

▲丹後平古墳群、敷地外から。

▲丹後平古墳群出土、柄頭。

▲丹後平古墳群出土、アクセサリー。

新羅製の豪華な柄頭や、たくさんの勾玉。阿光坊よりも派手な感じですね。

ところで狩猟採集をしていた人たちが古墳を造り始める経緯・理由というのは何なんでしょう。稲作を始めるのはなんかわかる。ご飯おいしいし、米の酒もおいしい。魚のおいしい八戸の民なら稲作をしたくなるのは自然です(たぶん)。ご飯を食べる食器であるところの土師器を導入するのもわかる。でも古墳はなくても全然平気。まして北東北人から見れば自分たちを「蝦夷」として差別してくるような連中の文化であるわけで、抵抗感はなかっただろうか。

明治時代の日本が見下されつつも西欧化を進めたような感じかもしれないし、あるいは葛藤などなく稲作に付随するパッケージ(お祭りセット)として紹介されたものをそのまま受け取っただけかもしれない。古墳を造ること自体がすごく楽しかったとか。古墳時代の古墳造営の熱狂ぶりを考えると、その余熱が少しばかり遅れて届いて北東北をちょっと温めた、ということもあるのかもしれない。

 

〔参考文献〕
吉村武彦・川尻秋生松木武彦(編)(2023)『シリーズ 地域の古代日本 陸奥と渡島』KADOKAWA

ヨルさんのピアス

このところスパイファミリーのアニメを見ている。おもしろいです。職場の若手がよく話題にしていて、どうも流行っているらしいというので見始めたのだけれど、やはり流行るものは流行るだけの面白さがあります。鬼滅の刃と同じくです。

▲TVアニメ「SPY✕FAMILY」ウェブサイト SNSアイコンプレゼント(https://spy-family.net/special/special9.php)より

この画像は、そのスパイファミリーに登場するヨルさんというキャラクターなんですが、古墳が好きな人は(もしかしたら)ビビッと来るポイントがあります。金色で円錐形の耳飾り。

日本の古墳時代と並行する、韓半島朝鮮半島)の三国時代の垂飾付耳飾によく似たものがあります。半島南部の伽耶で作られたもので、金製で円錐形の垂飾が付いている。ヨルさんのには中間飾りがないけれど、垂飾だけを見ればほとんど同じと言って良い(のか?)。

▲天理参考館所蔵「金製耳飾」三国時代慶尚南道

古墳時代の日本にも持ち込まれていて、例えば江田船山古墳出土の金製耳飾にも付いている。

東京国立博物館所蔵「金製耳飾」画像出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

それにしても三国時代の耳飾りはデザインが洗練されています。日本の古墳時代も含め、この時代のデザインの良さというのは埴輪のデフォルメみたいな古拙の良さが主であるように思われるのだけれど、耳飾りに関しては現代的である。
東京国立博物館の東洋館に同時代の耳飾りがさほど多くないながらも展示されていて、小さくて地味っぽいけどよく見ると中々の出来だとわかります。

東京国立博物館所蔵「細環式耳飾」三国時代加耶

東京国立博物館所蔵「太環式耳飾」三国時代新羅

実際にこれを着けている人を想像してみると、結構いい感じではありませんか?

 

追記(2023.03.20)

2023年3月19日現在、トーハクの平成館考古展示室で熊本県繁根木古墳出土の垂飾付耳飾が展示されています。江田船山古墳出土品の並びです。こちらも優品ですね。

東京国立博物館所蔵「垂飾付耳飾」繁根木古墳出土

〔参考文献〕
高田貫太(2021)『アクセサリーの考古学 倭と古代挑戦の交渉史』吉川弘文館

沖縄で貝殻を買う

寒波が来るというので寒さを避けて沖縄へ行ってきました。いや、実際のところ避けきれなかったのですが。
というのも、沖縄でも1月末は普通に北風が寒い。寒さのレベルが本土とは段違いに低いのではあるけれど、風を防げる上着がないと肌寒いと感じる程度ではある。少なくとも暖かくはない。おまけに日本海側の冬みたいに晴れたり雨が降ったりを繰り返していました。東シナ海からの風が直撃する、琉球は島国なんだなあと思う。

結局、海辺でバカンスみたいなことはできず、帰り際に空港近くの瀬長島の砂浜を歩いたのが唯一の南国ビーチ的な体験だった。

▲瀬長島の砂浜から

沖縄に来たら買おうと思ってたのが貝殻。なんでかというと沖縄の貝殻は古墳時代人愛用の品なのですよね。わざわざ琉球諸島(⇒古墳文化の圏外)から貝殻を手に入れて、穴を開けて腕輪にしたやつ(=貝輪)を弥生時代以来珍重していた。さらには貝輪の形をモデルにした石釧・鍬形石・車輪石などの石製品を作ったりもしている。

▲石釧、東大寺山古墳出土、東京国立博物館

▲鍬形石、同

▲車輪石、同

このうち石釧はイモガイ、鍬形石と車輪石はゴホウラの腕輪をモデルにしているらしい。(1)
少数派の貝種としてはスイジガイの腕輪も作られていて、静岡の松林山古墳と山梨の甲斐銚子塚古墳で出土している。スイジガイは沖縄では今でも魔除けにしているそうで(見た目はいかにも魔除けになりそう)、古墳時代人も同じような用途で使っていたかもしれない。

▲スイジガイの貝輪、松林山古墳出土、東京国立博物館

というわけで国際通り沿いのお店に行ってイモガイとゴホウラとスイジガイを買いました。ちなみに浜に落ちてるやつは持ち帰り禁止だそうです。店で買わなければならない。

まずイモガイ

イモガイ

きれいな三角錐の巻貝型なので輪切りにして輪っかにするのは簡単に想像できる。ただしこの貝殻は小さいので腕には通らなさそうだ。

次はゴホウラ。

▲ゴホウラ

これは結構ずっしりとしている。中心部はサザエみたいな巻貝があるのだが、その周囲に平べったい貝殻がくっついたみたいな不思議な形。このまま穴を開けたら鍬形石の形になりそうだし、巻貝部分を輪切りにしたら車輪石みたいになる……のだろうか。

最後にスイジガイ。

▲スイジガイ

とげとげしている。ただしこれは小さい上に形があまりかっこよくない個体。比べると松林山古墳のやつはとげの出方がきれいだし、表面を削ってかっこよく仕上げてあることがわかる。大きな古墳を造れるくらいの偉い人だから高級品を選んで買ったのであろう。生きている時代は違っても王と庶民の差である。

ところで現代人としてはどう使うかですが、イモガイは形がきれいなので本棚の置物に。ゴホウラは重いので文鎮にでもなるか。スイジガイは魔除けとしてぶら下げることにしました。部屋の一角がいろんなモノを除けられそうになってきた。

▲スイジガイの実用。

(1)北條芳隆(2013)「腕輪形石製品」『古墳時代の考古学4 副葬品の型式と編年』同成社
〔その他参考文献〕
橋本美佳(2013)「貝製品」前掲書に所収
木下尚子(1996)『南島貝文化の研究』法政大学出版局
沖縄考古学会(編)(2018)『南島考古入門 ―掘り出された沖縄の歴史・文化』ボーダーインク

気になるあの絵

新年最初のトーハク詣で。正月2日から開館しているということで正月休みの暇つぶしに行ってみたら、同じような考えの人がたくさんいて常設展が特別展並みに混雑していた。本館と東洋館のロッカーが完全に埋まっていたのは初めて見た気がする。

▲金銅製眉庇付冑

平成館考古展示室にある祇園大塚山古墳出土の金銅製眉庇付冑。以前から展示されていたのかどうか覚えていないけれども、目に止まったのは今回が初めてです。展示替えがあったのかもしれない。眉庇付冑(ツバのついた冑)は古墳時代には他にも普通にあるのだが、他がたいてい鉄錆色なのに対してこいつはやけに残りが良くてぴかぴかしている。

このぴかぴかしているというのがひとつのポイントであり、金銅(銅に金メッキ)製です。金銅はこれが造られた5世紀当時では朝鮮半島からもたらされたばかりの最先端技術だったそうである。後代には装飾品や仏像仏具なんかで普通に使われるようになるのですが。
ちなみに銅は鉄に比べてやわらかいので鉄の武器が飛び交う戦場ではあまり実用的ではなく、

実際の戦闘での機能性よりも、煌びやかに見せることをそもそもの目的として制作された ーー橋本(2013)

とのことです。軍人が儀式に出席するときに身につける礼装みたいなものか。

ぴかぴか以外にも目に止まったポイントがあり、金銅のメッキが残っている部分に文様があるんですね。しかもちょっと下手なのが独特の味を出している。

▲「哺乳類」

▲「爬虫類」

▲「鳥」

▲?

(図像の名称は橋本(2013)による)

この写真で撮っていない側に「魚」の図像もあるようです。鳥や魚は他の古墳から出土した冑や、江田船山古墳の鉄刀にも彫られている事例があり、

同源の世界観を表している可能性がある。

表現の元になる神話などを反映しているとみるのが妥当であろう。

(いずれも前掲書)

間の抜けた絵ではあるけれど、最新技術で作った礼装用の冑に彫っているくらいなので大真面目であるのは間違いないのです。しかしこの彫刻にせよ埴輪にせよ、古墳時代人が作る像の独特のデフォルメ感は良いですね。

白磁

最後おまけ。全然関係ないんですが、東洋館展示の中国唐代(7世紀)の白磁壺。つるっとしすぎる壺はあまり好きでないつもりだったけど、これはなかなか気になります。あるいはつるっとしすぎていない(微妙なざらつきがある)のがよいのかも。ミニマルな良さです。

 

〔参考文献〕
橋本達也(2013)「祇園大塚山古墳の金銅装眉庇付冑と古墳時代中期の社会」『歴博フォーラム 祇園大塚山古墳と5世紀という時代』六一書房

古墳前バス停

湖西線比叡山坂本駅から江若バスに乗り、5分ほど。たどりついたのは……

比叡山坂本駅前のバス乗り場

▲バスの車内にて。次は古墳前。

▲古墳前バス停で下車。

古墳前バス停。ちなみにこの道の名前は古墳通というらしい。

きっとすごく大きな古墳とか、考古学的に貴重な古墳とか、そうでなくてもこの地の歴史を語る上で重要な古墳があるのではないかと期待が膨らむ名前です。がしかし、実際のところそういうわけでもない。(古墳があるのは本当)

▲平石古墳

バス停近くの階段を登ったところに平石古墳という古墳があります。隣が公園になっていて、そこからは二段築成のそこそこ大きな円墳っぽく見えるけれども、現地の説明看板によると8×15mの方墳とのこと。たぶんこの丘じたいは古墳ではなく、てっぺんの囲いがある部分だけが古墳なのだろうと思います。時期的にはすでに古墳時代が終わり飛鳥時代に入ってからの終末期古墳。埋葬施設は切石積の横口式石槨。切石積はいいですね。見られるならぜひ見たいけど公開はしていないようです。

図書館で発掘調査報告書を探してみたけど見つからず。探し足りないだけかもしれないけれど、あるいは発行されていないかもしれない。多少の言及がなされている本はあり(田中2008)、被葬者について「新たな中央・地方官制の中に組み込まれたある種の地方官であったのではないか」と推測しています。

▲高峰1号墳(中央)と2号墳(左端)

平石古墳の他にも、バス停から少し先に歩くと高峰1号墳・2号墳という2基の古墳が公園の中にあります。こちらも発掘調査報告書は見つからず。『大津市史』に少しの記述がありましたが情報量は現地の看板とさほどの差はない。古墳時代中期の古墳群であり、1号墳は45mの前方後円墳、2号墳は18mの円墳。すでに墳丘が削れてしまっていたのを復元したようです。したがって写真の墳丘はほぼ現代的構築物であって往時の姿をどの程度残せているかは不明。

というわけで古墳前バス停の「古墳」とは、めっちゃローカルな小古墳なのでありました。まあバス停というのはすごいローカルなランドマークの名前がついていたりするものですね。「神社前」とか「小学校前」とかいうバス停があったとしたら、何の変哲もない神社や小学校の前にあると考えるのが普通ですね。「古墳」というキーワードがあったので無駄に想像を膨らませてしまった。これはいけません。「古墳前」バス停の前には何の変哲もない地元の古墳があった。それでじゅうぶんというものです。

 

〔参考文献〕
田中勝広(2008)『古墳と寺院―琵琶湖をめぐる古代王権―』サンライズ出版
大津市役所(編)(1984)『新修大津市史』第7巻

酒のうまい土地

はあ。酒がうまい。うまいですなあ。ハッハッハ。

信州亀齢というお酒です。ほのかにいい香りがして、さらっとして、そして甘露であり、旨い水でもある。良いです。

どうしたのかというと、新幹線で長野県は上田に行って買ってきました。とはいえ酒を買うために行ったわけではない。しかれどもそのつもりが全く無かったとも言い切れない。

▲信州亀齢、岡崎酒造

上田は城下町であり、城跡がある。あと、水が良いらしく、街なかに湧き水がある。水が良いせいか(という理由付けは実はあまり好きでないのだけれど)お酒は旨いし、駅前の喫茶店はおいしいブレンドが420円で飲める。その次に入った喫茶店はチーズケーキがおいしいし、昼食後に入ったワインの店では地元のシードルがうまい。駅前のブルワリーで飲んだビールも良いです。つまり飲むことに関してこの街はなんだかとても良い感じです。

柳町、上田

ひととおり飲んで満足してから古墳を見に行きました。このあたりは古代には信濃国国分寺が置かれたような中心的な土地でありながら、それ以前の古墳時代にはあまり目立った古墳がないです。それゆえ小さな古墳を見て回ることになる。

事前の知識として確認しておくと、古墳の平面形は、方墳〔四角形〕→円墳〔円形〕→前方後方墳〔四角形+四角形〕→前方後円墳〔四角形+円形〕の順にランクが高くなるとされていて、サイズも大きいほどランクが高いということになっている(1)。日本最大の古墳が全長500m超であることを念頭に置くと大きさもイメージできます。

上田の有力な古墳を年代順に見ると、地域で最初の古墳が4世紀から5世紀の大蔵京古墳(長辺35mの方墳)、次も方墳の中曽根親王塚、そして帆立貝形(前方後円墳のなりぞこないみたいなやつ)で全長50mの王子塚古墳が造られ、ようやく6世紀になって前方後円墳の二子塚古墳ですが全長は49mとあまり大きくない。形の変遷から「グレードを上げて」いったとされるけれど(2)(3)、それとて小さい部類です。その後はまた円墳に戻り、塚原穴1号墳、他田塚古墳、皇子塚古墳などと続く。

▲大蔵京古墳。わかりにくいけど真ん中の盛り上がりが墳丘。

▲王子塚古墳。真ん中やや左下の部分が墳丘。

▲二子塚古墳。削れてしまって形はよくわからない。

▲二子塚古墳のオブジェ

▲塚原穴1号墳

▲他田塚古墳。塚原穴1号墳とともに「いにしえの丘古代公園」の中にある。

▲皇子塚古墳

まあ、そんな感じで古墳はさほど大きくはないですが、それでありながら史跡として整備もされていて見栄えは良いです。酒のうまい上田の礎を築いた古墳時代人の皆様に思いを馳せつつ、別所温泉に浸かって一日を終える。

 

〔参考文献〕
(1)都出比呂志(2011)『古代国家はいつ成立したか』岩波新書 ほか
(2)小林秀夫(2006)「千曲川流域における古墳の動向―5世紀代の古墳を中心として―」『「シナノ」の王墓の考古学』雄山閣
(3)上田市誌編さん委員会(編)(2000)『上田市誌 歴史編(2) 上田の弥生・古墳時代上田市