水玉模様の壺

青梅へ行った。暇な三連休なので一日くらい外出しようと思い、郷土博物館でやっている古墳時代の遺跡の展覧会を見に行ったのである。
霞台遺跡。古墳時代前期の集落の跡。結構大きい遺跡のようだけれど、青梅市内でその時期の古墳はいまのところ見つかっていなさそうで、この集落の偉い人々がどこに墓を造ったのか不明です。
ところで古墳時代の偉い人ってみんな古墳を造ったのだろうか。古墳って目立つし全国に散らばってるのでみんながみんなそうしていたように考えてしまうけれど、国が統一されていない段階でそこまで均質な文化ではなかったかもしれない。まあ、わかんないですけど。以上余談。
展覧会は有名な出土品があるわけではなく出品数も少ないのですが、なかなかいい仕事が見られます。第一にはこの壺。頸部に赤彩の水玉模様がある。水玉!

▲口部から頸部にかけて赤い水玉模様がある。

▲同じ壺を真横から。

最近ちょうど松本で草間彌生の作品を見たばかりでもあり、個人的に水玉はいい感じなのである。しかもロクロが無い時代の作であるためややいびつな丸っこい形。まるで草間彌生のカボチャではないですか。古墳時代人、なかなかモダンでかわいいデザインができるのである。

松本市美術館草間彌生 版画の世界」展の撮影可能ゾーンにて、カボチャ。

ちなみに水玉模様自体はこの遺跡に限った話ではなく、埴輪ではいくつかあります。実際に自分で見たものは保渡田八幡塚古墳にある鹿形埴輪(復元)だけだが、少し調べたところ栃木県の甲塚古墳出土機織形埴輪は水玉模様で復元されているし、福島県の原山一号墳出土埴輪の帽子にも水玉模様があるようだ。ただ壺に彩色の水玉模様があるのは他に見つからなかった。この水玉壺は結構珍品だったりしないだろうか。少なくとも優品ではあると思う。

▲保渡田八幡塚古墳に復元されている埴輪群像。最後尾の鹿に赤い水玉模様がある。

なお、水玉壺以外にも下膨れの壺や、まるっとした壺など、個人的な好みのツボをほどよくつつくような品が出品されていました。無料で入れる小規模な展覧会もあなどれない。

▲ほどよい下膨れの壺。



木曽馬、松本平

木曽馬を見に行った。なぜ木曽馬かというと、頭が大きくて足が短い中型馬という特徴が古墳時代の馬に似ているらしく(1)、また日本在来種だから現に古墳時代馬の血をいくらかでも引いている可能性は高く、実際に見たら古墳時代的雰囲気を感じられるだろうという考えがありました。
行き先は長野県の「木曽馬の里」。木曽福島から山を越えて行きます。途中までは雨は降っていなかったけれど、峠を越えたところで一気に本降りになってしまった。さわやかな高原の放牧地で木曽馬たちが楽しそうに駆け回っているような光景を期待していたので残念ではあるが(雨が降ると馬は外に出さないとのこと)厩舎の中で至近距離で馬を見ることができてこれはこれでよかったかもしれない。

▲福栄号

木曽馬はサラブレッドにくらべるとずんぐりしてもこもこしています。雨の日の厩舎の中が暇すぎるせいかやる気がない目をしている。のんびりして間の抜けた感じは埴輪馬にも似た雰囲気があり、当時の馬もこんなだったのかなあと思う。

▲明花号

帰りは木曽から鳥居峠を越え松本方面へ。いま国道19号になっているこの道=木曽路古墳時代にはまだ無く、開通したのは少し後の奈良時代8世紀(702-713年)のこと(2)。当時のルートは不明な点が多く、国道19号と同じ鳥居峠を通るとする説と、北回りで境峠から梓川に出て今のアルピコ交通上高地線に沿ったあたりを松本市方面に向かったとする説がある(3)。後者だと古墳的には話の繋がりがいいです。というのも、このルート上では木曽路が開通する少し前の7世紀後半頃から開発が本格化して集落ができ、8世紀にかけて古墳群が造られている(4)。土地の開発と道路の建造が連動していたのかもしれない。現代でも高速道路ができると同時に周辺が開発されたりしますね。

木曽路ルートの2説

上高地線(上図の「松本電鉄」)の線路近くにある、もしかしたら木曽路と関連するかもしれない(と勝手に想像している)安塚第6号古墳と秋葉原第1号古墳。

▲安塚第6号古墳

付近にはもっとたくさん古墳があったそうだけど、いま残っているのは2基だけになっている。どちらも墳丘は破壊されて石室の下半分だけになっていて、さらに秋葉原第1号古墳は移築復元されていて場所すら変わっています。しかしともかく残っているのはありがたいことです。こうやって見に行くことができる。

▲安塚第6号古墳、別角度から。

奈良時代に入っていることもあり、近畿ではすでに古墳が造られない時代である。しかし東国は古墳を築造し続けた人々もあり、この安塚・秋葉原古墳群もそれに列なる。ただし、当初は横穴式の古墳として造られたものが「ほどなく天井石がとりのぞかれ、」(4)火葬場として利用されるようになったらしい。古墳時代の終わり、という感じである。

秋葉原第1号古墳

この新開発の土地に集落や墓を造ったのはどういう人だったのか。端的に言うと、当時としては新しい農業技術を持ってどこか外部から来た人々だったらしい。それ以前には湧水や小さな川の周辺にしか田畑を作れなかった(のでこのあたりに集落はなかった)のが、新しい技術は川のない場所にも水を引くことができるようになった。そうして土地を切り開き、田畑を営み、集落を造った(4)

これらの人々がどこかから来たという「どこか」とはどこなのか。はっきりしないらしいけれど、古墳の石室の構造からすると少なくとも近隣ではないようです(4)。勝手な推測をすると、土木技術というところからの連想で、木曽路を造った一団が関わっていそうな気がする。全くの無根拠ではなく、木曽路を造ったのは『続日本紀』によると(2)隣の美濃国の人々だったようなのですが、安塚・秋葉原古墳群や近くの集落遺跡からは美濃国で造られた須恵器が見つかっていて、(4)なんらかの関連はあるかもしれない。

最後にふたつの博物館へ。
ひとつめは塩尻市立平出博物館。市内出土の土器のコレクションが多くて、特に縄文土器は点数が充実しています。

▲平出博物館の縄文土器。いいデザインである。

近くには平出遺跡という縄文時代から平安時代にかけての大きな遺跡があり、各時代の住居が復元されている。復元住居だけなら各地にあるけど、高床倉庫に入れるのは初めて見た。古墳時代人の気分になれます。

▲復元高床倉庫。

▲高床倉庫の内部

ふたつめは松本市立考古博物館。こちらも縄文土器が充実している。それから、市内の弘法山古墳出土品が揃っている。壺がいい形してます。下膨れのぽってりした感じがとてもよいです。

弘法山古墳出土の壺。

〔参考文献〕
(1)丸山真史、覚張隆史(2019)「動物考古学による古墳時代のウマ研究」『馬の考古学』雄山閣
(2)青木和夫ほか(校注)(1989)『新日本古典文学大系 12 続日本紀1』岩波書店
(3)山田富久ほか(2020)「「木曽古道」の経路と地形」『第29回調査・設計・施工技術報告会 論文集』地盤工学会中部支部
(4)松本市(編)(1996)『松本市史 第二巻 歴史編1 原史・古代・中世』松本市

会津の古墳

浅草から東武伊勢崎線日光線鬼怒川線野岩鉄道会津鉄道・JR磐越西線を乗り継いで会津若松・喜多方までを往復できる「ゆったり会津 東武フリーパス」という切符があります。鉄道に興味がない人からすると謎ルートかもしれない。普通は新幹線で郡山乗り換えにする(乗換案内ではそれが出る)のに対してこの切符のルートはもちろん新幹線ではないし、北半分は単線のローカル線なのでスピードも出さない。結果、時間がかかる。鉄道に乗ること自体を楽しまない人なら聞いただけで却下しそうな気がする。ただし浅草から特急リバティに乗れば、途中1回乗り換えるだけで会津若松まで行ける。乗り換え1回という点では新幹線経由と同じだし、リバティの座席はなかなか良いので時間以外は互角と言ってもいいかもしれない。ゆっくり旅をするならばこちらもじゅうぶん選択肢になるはず。

会津田島駅にてリバティを降りて乗り換え。

そうして、この裏ルートで会津に行った。やることは主には古墳巡りである。ただし巡るには腹が減ったので最初は喜多方でラーメン屋に行きます。

会津田島駅にて乗り換えた会津鉄道の列車。

目当ての店があったわけではなく、それにだいたいどこでも水準以上のものが出るだろうから、適当な店に入ろうと思っていた。一応、坂内食堂くらいは知っていたので込んでいなければそこで食べようとも考えていたけれど、行ってみると噂通りの行列ができていた。というわけでその先にある別の店で食べた。そして目論見通り水準以上の味だった。自宅の周辺にある「評判の店」などと比べても普通においしい。1杯を食べ終わったときに味に飽きていない。最後までおいしいのである。近所の常連さんらしい人が何人かいて店主と話していた。喜多方の人はおいしいものを気軽に食べられてうらやましいと思う。

▲喜多方、坂内食堂のある通り。行列ができている。

食後、古墳へ行く。まずは亀ヶ森古墳・鎮守森古墳という二つ並びの古墳です。車で走りながら周辺の様子を見ると、微高地の上に村と古墳がある。この村は道が入り組んでいて、用水路も張り巡らされている。雰囲気としては環濠集落にも似ているけれども、少し調べた限りでは環濠という話は出てこなかった。ただ、亀ヶ森古墳の墳丘が中世には館として使われたとのことで、村の構造ともなにか関係があるのかもしれない。そんなことを踏まえてあくまでも雰囲気の話とすると、中世の村落という感じがしてなかなか良い。

▲亀ヶ森古墳のサイドビュー。

亀ヶ森古墳は全長127m(1)で県内最大の前方後円墳である。周囲は周濠に囲まれていて、現状は原っぱになっている。墳丘の上には稲荷神社と観音堂がある。前方部は墓になっていて全体としては結構削られているようです。

▲鎮守森古墳のサイドビュー。木の隙間からなめらかな形がわかる。

一方の鎮守森古墳は亀ヶ森古墳からほとんど隣接するような距離にある全長56mの前方後方墳(1)築造時期は亀ヶ森古墳よりも少し後が想定されるとのこと。こちらのほうが残りは良いように見える。後方部から前方部を見下ろしたときのくびれ具合とか、北側から見たサイドビューなどは、前期古墳らしいきれいなプロポーションです。木がなければもっときれいに見えるだろうなと思う反面、木が茂っているのが鎮守森の名にふさわしく(上に八幡神社がある)これはこれで良い風景である。

▲鎮守森古墳、少し離れたところから。

続いては少し南へ車で移動。杵ガ森古墳。削られてしまっていてかなり平べったくなっているけれど、とりあえず前方後円形はわかる。造られたのは亀ヶ森古墳よりも古く、古墳時代前期前半、会津ではかなり初期段階に近い。あたりは弥生時代以来の古式ゆかしいお墓であるところの方形周溝墓に囲まれていて、古墳時代的には古風な遺跡である。(まとめて稲荷塚遺跡という)

▲杵ガ森古墳サイドビュー。左が後円部、右が前方部。

さらに杵ガ森古墳から徒歩5分くらいで臼ガ森古墳がある。杵と臼でセットなのだ。見た目は円墳っぽいけど実際は全長約50mの前方後円墳だったとのこと。杵ガ森古墳と同じく古墳時代前期に造られたようだ。(2)

▲臼ガ森古墳。鳥居の背後に後円部の盛り上がりがある。

次は、会津で一番有名であろう会津大塚山古墳です。現代的な霊園の中にある、全長114mの前方後円墳(3)木が生い茂っていて少なくとも夏場は全体像を見ることができないが、墳丘の上は木が少なくて見通しがよく、大きさを感じることはできる。くびれ部の横に広い張り出しがあるということだけど、事前情報なしで行ったため気づかないまま帰ってきてしまった。古墳には造出というちょっとした出っ張りがくっついていることがあるが、図を見た感じではそれよりもずっと大きい。新潟市の山谷古墳にも同じような構造があり、関連があるかもしれないとのこと。(2)

会津大塚山古墳の前方部から後円部を見る。

▲現地の案内図。図中、中央やや下の平らな部分が張り出し部。


会津大塚山古墳が有名なのは出土した三角縁神獣鏡による。三角縁神獣鏡がなんで注目されるのかというと、当時としては貴重品で倭国の中枢が政治的に利用していたと考えられているためです。

配布・授受をつうじて諸地域の有力集団と関係を結び、そうした諸集団を序列づけようとする畿内中枢勢力の意図があった。(4)

なのでその分布や形式を研究することで、

中央政権の所在地や安定度を、地方の政治動向を、……年代を、身分を、対立する政治勢力を、……探る物差しとして(5)

役に立つわけです。この鏡があるということは、当時の会津倭国の中央政権とある程度強い関係を持っていたらしいという予想ができる。
しかし、そういうのを抜きにして単にデザインだけ見ても銅鏡というのは結構面白いです。鋸歯文・唐草文、同心円、神獣とか。

会津大塚山古墳出土三角縁神獣鏡福島県立博物館所蔵。

ところでせっかく古墳を見たのでそれを造ったのがどういう人々だったのかを確認しておきたい。会津盆地は古墳時代的にはわりと辺境で、山を越えた隣の山形県は古墳の分布の北限にあたる。その先にあるのは稲作農耕をしない狩猟採集文化である。少し後の時代のことになるけれども、国造制という制度が敷かれて日本全国が一律に統制されるようになったときにも会津はその制度の中に入っていなかったらしい。(6)
そんな古墳時代的田舎に当時最先端である前方後円墳(それも結構大きい)を造る技術や、三角縁神獣鏡がもたらされたのはなぜなのか。気になる。気になりませんか。

物の本によると、弥生時代の終わり頃から古墳時代の初期にかけて、北陸方面から移住してきた人が多かったらしい。例えば土器は北陸起源のものが増えてくる。現地人と新しい文化を持ってきた移住者が共存していたようです。(7)古墳の形にしても、上に書いたように会津大塚山古墳は新潟との関連がありそうだ。

▲稲荷塚遺跡出土土師器。口の部分が直線的に広がるのが北陸様式らしい。

そういう状況で会津盆地の中はおおむね3つの地区でまとまりをつくるようになる。そのうちの一つが西部(杵ガ森や亀ヶ森など)、また一つが南東部(会津大塚山など)のグループである。3つの地区はゆるやかに連合して会津としてのまとまりももっていた。(2)
倭の中央政権としては辺境とはいえ人口が増えて成長してきた会津と友好関係を結んで勢力を拡大したい。会津連合としては最先端の物資を手に入れたい。という利害の一致で大きな古墳を造る技術や三角縁神獣鏡会津にもたらされた。(2)
しかし今日見たような大きな古墳(古墳時代前期のもの)が一通り造られたあと、古墳時代中期になるとほとんど古墳が造られなくなります。倭政権の方針転換で辺境重視をやめたのではないかとのこと。(2)会津はまたただの辺境に戻り、後には国造制の範囲外になるなど辺境でありつづけた。

▲御薬園にて。

旅の最後に会津若松の御薬園に行きました。会津藩松平氏の庭園である。以前、庭は音を感じるのがいいみたいなことを書いたけど、御薬園もまた音がいいです。歩いていて水の流れる音が聞こえる。少し歩くと聞こえなくなる。また次の水音が聞こえてくる。これによって場面転換がなされる。木の配置によって音の反響がコントロールされているような気もする。特に茶室に向かう道は、はじめは旅の道中のような心細い感じから始まるけれど、橋を渡る手前で風景が急に開けて、水の音は波のようになり、海岸に出たような感覚になる。夏に行ったからか蝉の声も音を構成していて良かった。いい庭です。

トロッコ列車の車窓。

帰りは会津鉄道トロッコ列車。思いのほか良いです。爽快である。

 

〔参考文献〕

(1)現地の案内看板による。
(2)菊池芳朗(2010)『古墳時代史の展開と東北社会』大阪大学出版会
(3)現地の案内看板による。
(4)下垣仁志(2019)「古墳と政治秩序」『シリーズ古代史をひらく 前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか』岩波書店
(5)都出比呂志(2011)『古代国家はいつ成立したか』岩波新書
(6)篠川賢(2021)『国造――大和政権と地方豪族』中公新書
(7)辻秀人(2006)『シリーズ「遺跡を学ぶ」029 東北古墳研究の原点・会津大塚山古墳』新泉社

青塚古墳と壺と

青塚古墳。南東側から。

数年前にたどり着けなかった青塚古墳についにたどり着いた。地上で見ても地図で見ても美しき前方後円墳。愛知県下2番目の大きさにしてきれいに復元整備もされているのでじつに見栄えがします。

地理院地図(陰影起伏図)による青塚古墳。

美しさについて言うと、古墳時代前期の古墳らしく前方部があまり大きくなく墳丘の傾斜もなだらかで、全体としてはゆったりとした存在感がある。墳丘の裾と各段(三段築成)の平坦面に赤彩の壺形埴輪がぐるりと巡っていて、草の緑と壺の赤が対照的でもある。

▲墳裾の壺形埴輪(復元)

ただし築造時は全面が葺石で覆われていたそうなので「草の緑」は築造した古墳時代人の意図したところではないかもしれない。あと、色弱者にはこの緑と赤の対照はほとんど意味をなさないだろうとも思う。(とすると築造時の設計のほうが現状よりもユニバーサルな美かも)

▲墳裾以外は板で復元(?)されている。

個人的には壺型埴輪は好きである。というのも丸っこい焼物が好きだからです。特に下膨れやふにゃっとした感じが良い(そのへんは以前にも書いた)。あるいは古伊賀の破袋などは初めて見たときによだれが出そうだった。

〔破袋については五島美術館ウェブサイトからコレクション→茶道具→水指と進めば画像を見られます。が、やはり実物を見るのが良いです〕

ただし壺形埴輪が全体に並べられている古墳というのはあまり一般的ではないらしい。そういえばそうで、復元された古墳にはたいてい円筒埴輪が並んでいてその隙間とかにたまに壺形埴輪もある、みたいな印象です。壺形埴輪だけをぐるりと巡らすようなのは東海から東日本の古墳が主だとか。したがってこの古墳も遠目には全国一律規格の前方後円墳のようでいてきちんとローカル色が出ているのである。

▲西側から。

しかし前方部にある方形壇(写真では少しだけ盛り上がっているのがわかる)という区画だけは円筒埴輪が並んでいて、

鏃形石製品がともなうなど、同時期の畿内の首長墳と同じ祭祀が執りおこなわれた

(藤井,2022)

という、部分的に当時の中央政権から取り入れた(?)要素もある。最先端の流行に乗ってオシャレしてみたのか、あるいは政治的バランスを取った結果なのか。引用文献は後者をとるようです。

▲ガイダンス施設「まほらの館」に展示されている埴輪。

古墳の立地について。ほとんどまっ平らな場所にあるようでいて、じつは台地の縁の部分にある。陰影起伏図の北西部分にある線が段丘崖です。用水路が逆行できるほど低い。

段丘崖の下は犬山扇状地。つまり木曽川が作った扇状地であり、現代では木曽川本流はずっと北の方を流れていて枝流も整理されているけれども、はるか昔の全く治水などされていなかった頃は古墳のすぐ下まで枝流が流れていたことも、もしかするとあるかもしれない。そうであればこの青塚古墳は木曽川水系(&伊勢湾岸)に接続することになり、水上交通による各地との交流という、古墳好きにとってはちょっとばかり面白い展開になる。ここらへんは夢想のようなものですが。

 

〔参考文献〕
藤井康隆(2022)『濃尾地方の古墳時代東京堂出版
田中裕(2005)「壺形埴輪と東関東の前期古墳」『千葉県文化財センター研究紀要24 ―30周年記念論集―』千葉県文化財センター

壁画と冠

年2回の虎塚古墳の壁画公開にいつか行こうと思っていた。のだけど、どういうわけかそのタイミングで仕事や用事にぶつかることが多くて、そうして行けないでいるうちに感染症が流行りだして公開中止になったり色々あって余計に行けなくなってしまっていた。このままだと機会を逃し続けて結局行かなかったみたいなことになりそうなので、壁画の本物は見られないにしてもとりあえず行ってみることにする。レプリカだけでも見れればいい。

5月初旬。勝田駅がごった返していて何事かと思って調べたら、近くにあるひたちなか海浜公園のネモフィラが見頃なのだそうだ。ずいぶん映(ば)えるらしいですね。とはいえ古墳を見に行くのだ。直行バスへ向かう列とは別れてひたちなか海浜鉄道に乗る。バスでなく鉄道でネモフィラを見に行く人もいくらかいるらしく、車内はほぼ満席だった。中根駅で下車、田植えが始まった田んぼを見つつ古墳へ向かう。

中根駅のあたり。

古墳は想像よりも大きくて形もきちんと残っていた。前方後円墳。石室の入口はむろん厳重に施錠されている。太陽光が林の新緑を通して差し込んで、景色が明るい緑色に染まる。古墳を見るなら冬、というのはたまに聞くしその通りだと思う(木の葉や下草が無くて視界が良い)のだが、新緑の頃もなかなかですね。景色としては新緑のほうがいい。

虎塚古墳、前方部斜め後ろから。

▲石室入口。

古墳の隣に埋蔵文化財センターがあり石室のレプリカが展示されている。実物は公開日に行ったとしても撮影禁止なので、自由に見られるこちらのほうが良い、と言えなくもない。現に結構ありがたい。

▲石室内部(複製)。

何が描いてあるのかぱっと見ではよくわからないけど、奥壁の左下の縦棒が並んでいるのは槍か鉾、その右は矢を入れる靫、手の甲を保護する鞆、右下に大刀が三口ある(1)。しかし正面の円環とかその上の砂時計みたいなやつはよくわからないらしい。上の方にあるギザギザは弥生時代以来のおなじみデザイン、三角文(鋸歯文:魔除け)。

この古墳時代以前のプリミティブな(といえばかっこいいが、ありていにいえば下手な)絵は良いですね。少し時代が下って高松塚とかキトラ古墳の壁画となると上手だし綺麗だけど、現代の我々と地続きな感じが出てくる。地続き感のない、遠く離れた感じが良い。

ところでよく考えてみると、古墳時代人はなんでこんなに絵が下手なのだろう。写実的に描く技法が未発見だというのはあるにしても、それ以前に下書きの線と塗りがずれていたり(左の円環)、三角文もフリーハンドで適当に描いていたりして、現代人の感覚でいうところの「きちんと」は描けていない。

しかしおそらく古墳時代人が美的に劣っているということはなく、例えば焼き物は上手だったりする。そもそも縄文時代からずっと粘土細工は上手いのだ。弥生時代人は青銅器を精巧に作るし。古墳時代は鉄器も。古墳や住居などの建造物も造れる。それなのに絵は棒人間のレベルからあまり進歩していないように見える。どうも三次元の造形は上手くて、二次元に写し取るのが不得手なのかもしれない。美術の発達過程でそういう必然があったりするのだろうか。そのあたりは美術史の研究がありそうな気がする。興味はあるけど調べられていない。

1500年の時を経て倭人は(というと主語が大きすぎるか)二次元表現に熱狂する民になった。時の流れは面白いものです。

▲立体造形は古来より上手い。縄文時代、上野原遺跡の水煙土器、山梨県立考古博物館。

今回のもう一つの目的は茨城県立歴史館で展示されている三昧塚古墳出土品を見ることでもあった。これもデザインに関係する。冠の造形が気になっていたのだ。

茨城県三昧塚古墳出土品 文化遺産オンライン

広帯二山式という形式の冠(2)で、その名の通り山が二つある。藤ノ木古墳出土の豪華なやつが有名だけどそれに比べると立体的な表現があまりなく、影絵のように馬の列が続く。この馬のデザインがかなりうまい具合にデフォルメされていて、その列が山を越え谷を越え(という意図かどうかはわからないが)進んでいる様子がなんかかわいい。古墳時代のデザインの中で好きなもののひとつ。

茨城県立歴史館に展示された実物。影絵のように透かしてみるとかわいい。

三昧塚古墳の墳丘のほうは6年前に行ったときの写真があった。霞ヶ浦の近くにきれいに復元されている。晴れた日のドライブにちょうどいいです。

▲三昧塚古墳、2016年。

〔参考文献〕

(1)稲田健一(2019)『シリーズ「遺跡を学ぶ」134 装飾古墳と海の交流 虎塚古墳・十五郎穴横穴墓群』新泉社
(2)高田貫太(2021)『アクセサリーの考古学 倭と古代朝鮮の交渉史』吉川弘文館

清水の古墳

 静岡方面へ行く。

 新緑の季節だから山を見たかったが、関東平野には山が無いので関東平野を出る必要がある。とはいえあまり遠出をしたいわけでもなく、関東の周縁くらいがちょうど良い。どうせなら行ったことのない古墳を見ることができればなお良い。
 そこで行きたい場所リスト(Googleのマイマップに未見の古墳や観光地をリスト化してある)から条件に合う古墳を探したところ、清水に三池平古墳があった。衛星写真で見るときれいに復元されていそうである。そうしてここにしようと決める。

 最近は遠出することもめったにないのであまり運賃を気にせずに特急でも新幹線でも使って快適に移動すれば良いという気分だったが、家を出ると貧乏性が膨れ上がってきて結局普通列車の旅になってしまった。青春18きっぷの旅行のようだ。
 熱海から沼津までたまたま特急型の373系普通列車として運用されているのに出くわして嬉々として乗る。沼津で乗り換え。ここから静岡名物のロングシートの電車。富士山が見えていれば吉原か富士のあたりで降りてゆっくり見物しようと思っていたが曇っていたのでスルーして清水へ直行した。

 清水駅から三池平古墳まではバスもあるが本数が少ない(参考:しずてつジャストライン庵原線のトレーニングセンター行きです)。行くのは良いけれど、あまりじっくり古墳を見ていると帰れなくなることもありうるし、自由に行動できなくなる。なので駅前でレンタサイクルを借りた。Hello Cycling。後で調べたらソフトバンク社内ベンチャーで全国に展開しているらしい。我が家の近所にもあった。知らなかった。
 スマホで空車状況を見たり予約したりできるのは便利なのだが、初回はアプリをインストールして会員登録してクレジットカードを登録して……という一連の作業が面倒ではある。その点で行けば地方の駅前とかにある個人商店のレンタサイクルは楽だ。店番のおっちゃんに500円渡すだけでオーケー、みたいな感じだから。ただしHello Cyclingは個人商店ではとても太刀打ちできない数のステーションが主要都市周辺に設置されていて、何度も使うのならかなり便利だろうと思う。

▲借りたチャリ。

 ともあれチャリを借りた。電動なのが良かった。地図ではわからなかったけれど古墳までの道は最後が結構な上り坂になっていて、普通のママチャリだとかなり苦労しただろう。

▲途中、清水JCT

 さてそうしてやってきた三池平古墳です。なんか平べったい。それゆえか作り物っぽい。復元のせいなのか、あるいは元々作り物みたいな設計の古墳なのかはわからない。ただ少なくとも現状よりは高さがあったらしいことは想像できる。というのも後円部には竪穴式石室の天井石が地面に見えているのだが、石室というのは普通はてっぺんから少し掘り込んだ場所に造るので、この上にいくらかの土が盛られていたはずなのだ。あと、前方部には「排水溝」という石敷きの遺構があり、築造時には暗渠だったらしく(1)、つまり前方部も現状よりは高く土が盛られていたようだ。

▲三池平古墳、横から。平べったい。

▲後円部の石室

▲「排水溝」。手前が後円部。奥が前方部。

 作り物っぽさの原因は斜面の傾斜が急だということもあるかもしれない。発掘調査では裾石の積み方から傾斜角38°と推定されていて(1)、それに近くなるように復元されているように見える(あるいはそれよりも急なような……)。しかし古墳の傾斜は古い時代(古墳時代前期)は緩めの10~20°で、40°とかになるのは時代的には古墳時代後期であるそうだ(2)。中期初頭という三池平古墳の築造時期ならもっと傾斜の緩いマイルドなプロポーションのほうがありえそうだ。または個人的な好みではなだらかにぬるっとした形のほうがいい。

▲側面は傾斜が急になっている。

 なんとなくの話だけれども、立地というか見晴らしについては柳井茶臼山古墳に似ている印象がある。どう似ているのかというと、前方部から見ると後円部の向こうに目立つ山が見える(儀式的に意味ありげ)、南側が平地に向かって開けていてさらに向こうは海である(港や街道から見える)、というあたり。築造時期はどちらも5世紀初頭頃。その時期の流行りというか、時代背景があったのだろうか。と、築造者の狙いをうっすら想像できる気分になる。

▲前方部から後円部を見ると背後に山がある。

 古墳を降りて、少し時間があったので他に古墳がないかと探してみたら、すぐ近くにあった。行ってみる。

 神明山古墳群。1号墳は前方部が撥形に開く前期古墳。つまり古い。撥形という単語は古墳を巡っている人が見ると「おお」となる。おそらく。なぜなら前方後円墳の初号機であるところの箸墓古墳も撥形に開く。その類型ということなので、全国に多数ある古墳の中でももっとも古い部類に入るのだ。初号機のコピー。遺跡というのは古いほうが良いような気分がある。古い言葉でいうとロマンである。

▲神明山1号墳。奥の土盛りが墳丘。長い年月の間にかなり削られてしまっている。築造時の墳丘の端は白線と石で示されている。

 1号墳よりも少し低い位置には4号墳がある。横穴式石室なので見るからに古墳時代後期のもので、とすると1号墳からは300年くらい隔たっていることになる。発掘調査報告書によると「その被葬者はおそらく1号墳と関係する在地の有力者(血縁者)であったものと推測される」とのこと(3)。しかし古墳時代の権力は必ずしも血縁関係で継承されないとも言われるので、血縁者を想定する必要はないのかもしれない。文字のない時代に300年分の系図は記録できないし、口伝で伝わったとしても途中で伝説とか入ってきてぐちゃぐちゃになってそうだ。

▲4号墳。墳丘はなくなっていて、石室のみがある。

 ちなみに大きな古墳の近くに時期を隔てて別の古墳が造られる事例は他にもあるらしい。すでに事実としての血縁関係は無くなっていても、大きな古墳を造った伝説的な先人との繋がりを主張する目的ですぐそばに自分の古墳を造ったという想定(4)古墳時代という括りの中でもそんな断絶と再構成がある。

 このあと静鉄に乗って静岡へ行き、何をするでもなくぶらぶらしてから帰った。最近は静鉄の電車が新しくなっていてかっこいいです。

静鉄の電車

(参考文献)

(1)清水市教育委員会(2000)『三池平古墳墳丘発掘調査報告書(総括編)』清水市教育委員会
(2)青木敬(2017)『土木技術の古代史』吉川弘文館
(3)静岡市教育委員会(2010)『神明山1号墳・3号墳・上嶺遺跡』静岡市教育委員会
(4)土生田純之(2011)『古墳』吉川弘文館

カルデラの底

ここは阿蘇カルデラの底。

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大観峰より中央火口丘群とカルデラを見る。

阿蘇カルデラの景色はまことに良いです。中央火口丘群だけでも他ではそうめったに見られない火山の連なりであるのだけれど、その周囲はだだっ広い平地であり(それによって中央火口丘群がいっそう際立つ)、さらにその外側に切り立った外輪山が囲んでいる。360度いずれの方向を見ても風景に隙がない。すべてが火山で、ここは火山の底。

古墳時代人はどこにでも古墳造る人々なのでカルデラの底にも古墳を造り、それもひとつ大きなのを造って満足するのではなく、たくさん造ってくれたおかげで現代の我々はとても景色の良い古墳群を見ることができるわけで、ありがたいことです。

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▲小嵐山より中通古墳群を見る。中央左に長目塚古墳がある。右には前方後円墳の上鞍掛塚A古墳など4基。

この写真は中通古墳群のほぼ全体を、外輪山の切れ端のような小嵐山という小山にある展望所から眺めたものです。ほぼというのは木が生えていて一部が見えないということなのだけれど、この写真を撮った位置からさらに登れそうな感じもあり、また発掘70周年を記念して山頂の木を伐って眺望を良くしたという話もあり†、山頂までもう少し登っておけばよかったとも思っています。

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▲前掲写真の左端の木に遮られて見えなかった勝負塚古墳(左下)と入道塚古墳(その上の小古墳)。背後に根子岳

現存10基はいずれも草が刈られていて形がよく見えます。立入禁止とかの表示はないので道に接している古墳はひとまず上に登っても問題なさそうです。群中の最大かつ唯一発掘調査されている前方後円墳である長目塚古墳は、少なくとも現状残っている形は、前方部が(河川改修でほとんど削られたが)低くてくびれ部がちゃんとキュっと絞られていて個人的に好きな形であります。

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▲長目塚古墳を南から。元々はこの右側に前方部があった。背後は象ケ鼻と小嵐山(古墳の右)。

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▲長目塚古墳のわずかに残った前方部より後円部を見る。右奥に大観峰が見える。

ところで、カルデラの「底」という立地について、広い田んぼができるくらい農業に向いた土地なのだから古墳を造る人々が住み着いたんだろうという大雑把な理解だったのですが、

普通、古墳というのは高いところ、集落から見上げるところに造っているのが通例なんですね。同じ阿蘇の中でもそういう場所に造ってある古墳も当然あるのに、中通古墳群だけは全部低いところにある。


阿蘇以外から来られているという方は分かると思うのですが、非常にカルデラの内外というのは行き辛い。比高さ(ママ)があるし、当時は道がないから大変であっただろうと。†

という話であり、なるほどちょっとした謎だ。
この古墳群があるのは川沿いで、つまり本当にカルデラの「底」だけど、普通はあまりそういう低いところに造るイメージではない。それから、カルデラ内外の交通ということについて言えば、今回は東から豊肥本線で来るときに長いトンネルを抜けたし、西へはスイッチバックで下った。数年前には集中豪雨で不通になったりもした。険しい山道であって、古墳時代的な意味で交通至便とは言えそうにない。

じゃあなんでそんなところにわざわざそれなりの規模の古墳群を造ったのかというのは考えれば諸説出てしまう感じのようですが、もし古墳時代人がカルデラの底の風景を気に入ったのからだという説があるのなら、支持してみたい気分はある。

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▲車塚A古墳。木が1本生えていてアクセントになっている。

もうひとつ、カルデラの南半分である南郷谷に柏木谷遺跡という古墳群があります。時期的には4世紀~6世紀の土器が出土しているそうで、中通古墳群と同じ頃ということになる。しかしこちらは小さめの方形周溝墓と円墳が高密度でひしめきあっていて、立地も底よりは少し高い緩斜面にあり、様相はやや違っています。中通古墳群が広く壮大でやや都会的な美意識であるのに対して、南郷谷の柏木谷遺跡のほうが素朴で田舎的な風景という感じがする。

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▲柏木谷遺跡の古墳群。背後に中央火口丘群が見える。

現在は道の駅のパークゴルフ場内にあり、古墳の間を縫ってパークゴルフができるようになっています。ゴルフをせずに古墳を見るだけでも入場できました。

 

〔参考文献〕
阿蘇市教育委員会(2021)『長目塚古墳発掘70周年・熊本県史跡指定60周年・出土品熊本県重要文化財指定記念シンポジウム記録集:中通古墳群を考える』阿蘇市教育委員会