御殿場の古墳と双子山

土日に限って雨続きの梅雨とそれに続く猛暑で外に出る元気がなくて、エアコンの利いた室内で快適にボケーとする夏です。パソコンを見ていると、Googleマップに表示される古墳が増えてる。おかげで衛星写真で墳丘の様子を観察するのがマアマアな暇つぶしになります。ありがたいことです。

その暇つぶしの一環で未知の古墳を求めて御殿場のあたりを眺めてたら意外なことにいくつか古墳が表示されていた。なんで意外かというと、富士山の麓なのです。孫引きですが以下。

火山灰やスコリアなどが堆積し、吸水性の高い特徴をもつ土地が多くなっている。このため、水田耕作に適した土地が少なく、弥生時代から古墳時代にかけては遺跡数が少なく、土地利用が難しかったことを示している。(1)

いかにも古墳なんてなさそうな感じです。しかし、群馬などは火山灰の下に古墳が埋まってたりもするし、引用にある少ない遺跡というのがまさにマップに表示されているのかもしれない。そこで調べてみたのですが、結論を先に述べますと、古墳じゃない可能性が高い。

御殿場に古墳の名のつくものは数多くあるが、実際はそのほとんどが泥流丘で、確実に古墳であるといえるものは、古墳時代後期(七世紀)の大沢原の小円墳など、全部十基にも満たないのではなかろうか。(2)

今からおよそ2900年前に富士山が地震かなにかで山体崩壊を起こして(御殿場岩屑なだれ)、水と混ざって泥流となって流れ下ったのが御殿場泥流であり、そのときに取り残されたのが泥流丘である。(3)

御殿場市街地の周辺には、塚原や塚本など塚のつく地名が多数ある。(中略)これらの地域には長径二〇~三〇メートル、高さ五メートル程度の小丘が多数分布する。(3)

まさに古墳と同じくらいの大きさの丘があるのです。

また、泥流丘のほかに、江戸時代の宝永噴火のときに降り積もった火山灰を寄せ集めた砂山もある。宝永噴火のときの御殿場は相当な被害があったようで、田畑に大量の火山灰が積もり、食料が尽き、餓死者を出しながら復旧工事をした。(4)そのとき田畑から掻き出した砂を集めて盛ったようです。

御殿場市(5)には「砂よけの塚」という写真が掲載されていて、見た目は古墳と言われても違和感のないものです。ただの砂山ではあるけれども、御殿場の汗と涙が染み付いた、古墳以上に重い歴史を背負った史跡と言えるのかもしれない。

以上のようなわけで、Googleマップ御殿場市内に古墳として表示されているものの多くは古墳ではないかもしれないです。一方で市史に古墳であると確定的に書いてある大沢原古墳群については2019年8月時点でマップに表示されていない。その2点を考えるとマップの古墳についての表示は現時点では眉毛を唾でしっとりさせる程度の慎重さで見る必要がありそうです。なんでもない砂山を見ていたとしても、それはそれで歴史がある土盛りなのだから興味深くはあるけれど。

   * * *

ところで話題が変わりますが御殿場といえば富士山が見えます。日本一大きく土が盛り上がっている場所。その脇にある双子山(二ツ塚)は土盛りマニアにとっては中々ワクワクするスポットのように思われます。高いところならば涼しいのではないかと思いついて登ってみた。

f:id:hamajiu:20190822214617j:plain

▲御殿場口から登り始めてしばらく進むとまず目の前に現れる富士山-宝永山-双子山の並び。超巨大円墳4基が直列に並んでいるかのような美しい土の盛り上がりです。

f:id:hamajiu:20190822214638j:plain

▲二子山の間にある鞍部は美しくくびれている。まるで前方後円墳のくびれ部のようです。西都原古墳群のくだりで書いたようにこの滑らかさが良いのです。すべすべしている。

f:id:hamajiu:20190822214654j:plain

▲上塚から見下ろす下塚。長い年月を経て角が滑らかになった古墳のような見た目です。しかもサイズは古墳よりはるかに大きい。良い盛り上がりですね、火山と古墳は何か通ずるものがあります。

【参考文献】
(1)高橋一夫、田中広明『古代の災害復興と考古学 (古代東国の考古学 2)』高志書院、2013
(2)御殿場市史編さん委員会『御殿場市史 別巻Ⅰ 考古・民俗編』御殿場市、1982
(3)日本大学文理学部地球システム科学教室『富士山の謎をさぐる―富士火山の地球科学と防災学』築地書館、2006
(4)都司嘉宣『富士山噴火の歴史: 万葉集から現代まで』築地書館、2013
(5)御殿場市史編さん委員会『御殿場市史8 通史編 上』御殿場市、1981