あたりのようす

古墳てのはなにしろ、千何百年か前の先史時代に造られたデカくて見た目ピカピカで幾何学的な形状の構造物であるという、その点が圧倒的なのです。しかもそれが現代に復元されて住宅地の真ん中にあったりすると威容にウヒョーて思ったりする。いつだか神戸の五色塚古墳なんか見に行って、冬の朝日に照らされた墳丘が輝いているのを見てウヒョーて思ったもんさ。

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五色塚古墳の前方部から後円部を見る。住宅地に囲まれている。

行政のプレスリリースとか新聞記事でこういう復元古墳はよく「築造当時の姿に復元」とか書かれていて、なるほどなあと思いつつ、ところであるときふと思ったんですが、築造当時の古墳の“姿”はともかく“あり方”はこうではなかったはずですよね。少なくとも五色塚古墳の周辺は近代的な住宅で囲まれてはいなかったし、明石海峡大橋山陽電車もなかった。すると竪穴住居に囲まれていたのか? 水田が広がっていたのか? 道があったのか、それとも森林や原野か。それがわかると当時の時代の気分みたいなものが想像できるような気がするものです。人が大勢行き交う場所に威風堂々と輝いていたのか、ひとけの無い場所でひっそりと佇む静かなお墓だったのか、とかも。

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五色塚古墳の近くには明石海峡がある。海と古墳の間にJRと山陽電車の線路。

それで少し調べたら、花粉分析で周辺の植生を明らかにしようという研究がなされているそうです。つまり古墳周辺(多くは周濠の底)に堆積した花粉を同定することで近くに生えていた植物がわかるということで、結論の部分だけ引用してしまうと、

古墳時代奈良盆地東部の植生は、基本的にアカガシ亜属を主とする照葉樹林が発達してきたが、(中略)二次林が部分的に出現し、人為的な影響による草本の多い環境が広がりつつあった。(1)

古墳は築造後に人の手が入ることなく、自然に植物が生育するままになっていたと考えられる(2)

被葬者の2・3世代後には古墳築造当時の景観が失われるほど二次林化が進んでいた(1)

とのことで、基本的には周辺には森林が多く徐々に人が進出している状況で、一時的に切り開いて古墳を築造しても放ったらかしで林に戻っていったようです。

とすると、住宅地みたいなひらけた場所に遠くからでも見えるようなデカい考古学的建造物がある=すごい、という現代人的認識はどうも古墳時代人の狙いとは違うのかもしれない。森が多かったとすると大抵の場所からは古墳程度の高さのものはあまり見えず(現代でも周辺からは家が邪魔でほとんど見えないけど)特定のビューポイントから眺めることが想定されていそうだし、維持する気がないなら現代にピカピカ状態で復元されるのは想定外ということになる。したがって復元古墳を古墳時代人が見たら「余計なことしやがって……」と思うのかもしれない。(あるいは「できることならそうしたかった」という可能性もなきにしもあらず)

古墳は築造後より、築造することにより大きな意義があったのかもしれない。(2)---(3)より孫引き

古墳は埋葬の儀式をする期間だけの臨時的な祭壇にすぎないのかもしれず、もしそうだとすると一時の儀式のためにあんなにデカいものを造ってしまう熱狂というのはなんかヤバいですね。

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▲木に覆われた下船塚古墳。これは本来目指した姿なのか?

【参考文献】
(1)金原正明、泉武(1989)「花粉分析からみた奈良盆地東部の古墳時代植生の検討」『考古学と自然科学』21、日本文化財科学会
(2)東郷隆浩(2020)「古墳の築造と周辺植生」『大阪府立近つ飛鳥博物館館報』23、大阪府立近つ飛鳥博物館
(3)金原正明(1997)「自然科学分析による古墳築造後の景観変遷からみた古墳崇拝観」『宗教と考古学』勉誠社