出光美術館の展覧会に行ってきました。
開館50周年記念 東洋・日本陶磁の至宝 ―豊麗なる美の競演(トップページへのリンク)
展覧会のテーマからは逸れるのだけど、途中に展示されてる弥生土器でウヒョーってなった。照明の当たり具合が絶妙なのか、理由はよく分からないけど、ウヒョーなのです。いきなり抱きつきたい。抱えて運びたい。どこへ運ぶかというと、きっと墳丘墓の上だ。抱えたら体に密着した時の収まりがすごく良さそうなのである。今まで弥生土器でそんなこと考えたこともなかったけど、なんでだろうなあ。やっぱり照明のせいだろうか。
(参照できそうな画像がネットにはないので似ているものとしてMOA美術館のページをリンクします。こんな感じ↓)(画像リンク切れのようです/2016.11.06)
それでちょっと弥生土器の形を思い出しながら何の根拠もないことを考えていたんですが、弥生土器ってツルッとしてて抱えやすそうですね。いや実際抱えやすいに違いない。抱きついたらひんやりしててすべすべしてそう。そして当時の人はもちろんそれを運んだはずだから密着フィット感やすべすべ感を味わっていたのだ。ことによると、
「もっと運びたい……」
「運ぶのをやめられない……」
という依存症に陥っていたかも知れぬ。
▲縄文土器はゴツゴツしててあきらかに抱きつきたくないが、
▲弥生土器はツルッとしていて抱き心地が良さそう。(写真は東博の常設展示)
話はあさっての方向に飛ぶのだが、以前、労災の話を聞いた時にこんな事例が出てました。階段で転んで怪我をした事故の原因を探ってみたら、手すりが錆だらけで触りたくなかった……もしも綺麗に手入れされていたら咄嗟に掴んで転ぶことはなかったのではないか、と。誰もがすすんで災害防止の行動をしたくなるような対策が必要だというような教訓だったか。
壺に話を戻すと、誰もが抱えて運びたくなるような壺があったとしたら、墳丘墓に壺をずらっと設置するような工事もみんな喜んでやったかもしれない。のみならず、そもそも壺を運びたくてしかたないピープルが壺を運ぶ理由を作るために壺を使う儀式を生み出したかもしれないのである!(な・・・なんだって――!)
▲運びたい……。
そんなわけで、こんどは東博に移動して、抱きつきださに注目して古代からの陶磁器を見てみることにした(今回の写真は全部東博の展示物です)。感想にとくに根拠とか裏付けはないです。
▲縄文土器は基本的にゴツゴツしてトゲトゲしてるのであまり抱きつきたさがない。そもそも縄で紋様を付けた=縄のコピーであるので、これに抱きついて土器感を楽しむとすればそれは縄を楽しんでいるようなものである。
▲でも晩期になるとツルッと感が出てきて抱きつき用土器の萌芽が見えます。
▲弥生時代になるとさらにツルッとしてしかも程よい下膨れで、くびれ具合も柔らかく、小さい壺は両手でそっと、大きい壺は全身でしっかりと抱えて運びたくなる。
▲古墳時代は須恵器になると抱きつくには硬くて冷ややかな印象だけれども、小型の土器はむしろ両手で包み込みたい欲求を掻き立てる。
古墳といえば円筒埴輪。大型古墳には1万本以上も作られ且つ運ばれた土器なのでさぞ抱えたくなるはず……と思いたいのだが、これは……運びたくならない……。どうしたことだ。いや、考え方によってはこの横方向にぐるりと巡る出っ張りの間に腕が絶妙にフィットして得も言われぬ抱きつき感が得られるとかだ。
▲埴輪の馬に関しては抱きつきたいし運びたい。
せっかくなので海外も行ってみよう。東洋館に揃ってます。
▲抱えたいといえば真っ先に思い浮かんだのが西アジア展示室の潜水艦。キプロスの水差。こんなふうに浮いた状態で展示されてたら抱えたくなる。ラグビーボール的な。
▲イランの彩文土器は真ん中の膨らんだところを下から両手で支えるように持つとおそらく程良い。
▲高麗からは水注。これは把手付きだけれども、右手で把手を持ちつつ左手を丸いボディに添えて支えたい。朝鮮ものは全体に装飾を排したツルッと感やスベスベ感があって運びたい度が高いです。