会津の古墳

浅草から東武伊勢崎線日光線鬼怒川線野岩鉄道会津鉄道・JR磐越西線を乗り継いで会津若松・喜多方までを往復できる「ゆったり会津 東武フリーパス」という切符があります。鉄道に興味がない人からすると謎ルートかもしれない。普通は新幹線で郡山乗り換えにする(乗換案内ではそれが出る)のに対してこの切符のルートはもちろん新幹線ではないし、北半分は単線のローカル線なのでスピードも出さない。結果、時間がかかる。鉄道に乗ること自体を楽しまない人なら聞いただけで却下しそうな気がする。ただし浅草から特急リバティに乗れば、途中1回乗り換えるだけで会津若松まで行ける。乗り換え1回という点では新幹線経由と同じだし、リバティの座席はなかなか良いので時間以外は互角と言ってもいいかもしれない。ゆっくり旅をするならばこちらもじゅうぶん選択肢になるはず。

会津田島駅にてリバティを降りて乗り換え。

そうして、この裏ルートで会津に行った。やることは主には古墳巡りである。ただし巡るには腹が減ったので最初は喜多方でラーメン屋に行きます。

会津田島駅にて乗り換えた会津鉄道の列車。

目当ての店があったわけではなく、それにだいたいどこでも水準以上のものが出るだろうから、適当な店に入ろうと思っていた。一応、坂内食堂くらいは知っていたので込んでいなければそこで食べようとも考えていたけれど、行ってみると噂通りの行列ができていた。というわけでその先にある別の店で食べた。そして目論見通り水準以上の味だった。自宅の周辺にある「評判の店」などと比べても普通においしい。1杯を食べ終わったときに味に飽きていない。最後までおいしいのである。近所の常連さんらしい人が何人かいて店主と話していた。喜多方の人はおいしいものを気軽に食べられてうらやましいと思う。

▲喜多方、坂内食堂のある通り。行列ができている。

食後、古墳へ行く。まずは亀ヶ森古墳・鎮守森古墳という二つ並びの古墳です。車で走りながら周辺の様子を見ると、微高地の上に村と古墳がある。この村は道が入り組んでいて、用水路も張り巡らされている。雰囲気としては環濠集落にも似ているけれども、少し調べた限りでは環濠という話は出てこなかった。ただ、亀ヶ森古墳の墳丘が中世には館として使われたとのことで、村の構造ともなにか関係があるのかもしれない。そんなことを踏まえてあくまでも雰囲気の話とすると、中世の村落という感じがしてなかなか良い。

▲亀ヶ森古墳のサイドビュー。

亀ヶ森古墳は全長127m(1)で県内最大の前方後円墳である。周囲は周濠に囲まれていて、現状は原っぱになっている。墳丘の上には稲荷神社と観音堂がある。前方部は墓になっていて全体としては結構削られているようです。

▲鎮守森古墳のサイドビュー。木の隙間からなめらかな形がわかる。

一方の鎮守森古墳は亀ヶ森古墳からほとんど隣接するような距離にある全長56mの前方後方墳(1)築造時期は亀ヶ森古墳よりも少し後が想定されるとのこと。こちらのほうが残りは良いように見える。後方部から前方部を見下ろしたときのくびれ具合とか、北側から見たサイドビューなどは、前期古墳らしいきれいなプロポーションです。木がなければもっときれいに見えるだろうなと思う反面、木が茂っているのが鎮守森の名にふさわしく(上に八幡神社がある)これはこれで良い風景である。

▲鎮守森古墳、少し離れたところから。

続いては少し南へ車で移動。杵ガ森古墳。削られてしまっていてかなり平べったくなっているけれど、とりあえず前方後円形はわかる。造られたのは亀ヶ森古墳よりも古く、古墳時代前期前半、会津ではかなり初期段階に近い。あたりは弥生時代以来の古式ゆかしいお墓であるところの方形周溝墓に囲まれていて、古墳時代的には古風な遺跡である。(まとめて稲荷塚遺跡という)

▲杵ガ森古墳サイドビュー。左が後円部、右が前方部。

さらに杵ガ森古墳から徒歩5分くらいで臼ガ森古墳がある。杵と臼でセットなのだ。見た目は円墳っぽいけど実際は全長約50mの前方後円墳だったとのこと。杵ガ森古墳と同じく古墳時代前期に造られたようだ。(2)

▲臼ガ森古墳。鳥居の背後に後円部の盛り上がりがある。

次は、会津で一番有名であろう会津大塚山古墳です。現代的な霊園の中にある、全長114mの前方後円墳(3)木が生い茂っていて少なくとも夏場は全体像を見ることができないが、墳丘の上は木が少なくて見通しがよく、大きさを感じることはできる。くびれ部の横に広い張り出しがあるということだけど、事前情報なしで行ったため気づかないまま帰ってきてしまった。古墳には造出というちょっとした出っ張りがくっついていることがあるが、図を見た感じではそれよりもずっと大きい。新潟市の山谷古墳にも同じような構造があり、関連があるかもしれないとのこと。(2)

会津大塚山古墳の前方部から後円部を見る。

▲現地の案内図。図中、中央やや下の平らな部分が張り出し部。


会津大塚山古墳が有名なのは出土した三角縁神獣鏡による。三角縁神獣鏡がなんで注目されるのかというと、当時としては貴重品で倭国の中枢が政治的に利用していたと考えられているためです。

配布・授受をつうじて諸地域の有力集団と関係を結び、そうした諸集団を序列づけようとする畿内中枢勢力の意図があった。(4)

なのでその分布や形式を研究することで、

中央政権の所在地や安定度を、地方の政治動向を、……年代を、身分を、対立する政治勢力を、……探る物差しとして(5)

役に立つわけです。この鏡があるということは、当時の会津倭国の中央政権とある程度強い関係を持っていたらしいという予想ができる。
しかし、そういうのを抜きにして単にデザインだけ見ても銅鏡というのは結構面白いです。鋸歯文・唐草文、同心円、神獣とか。

会津大塚山古墳出土三角縁神獣鏡福島県立博物館所蔵。

ところでせっかく古墳を見たのでそれを造ったのがどういう人々だったのかを確認しておきたい。会津盆地は古墳時代的にはわりと辺境で、山を越えた隣の山形県は古墳の分布の北限にあたる。その先にあるのは稲作農耕をしない狩猟採集文化である。少し後の時代のことになるけれども、国造制という制度が敷かれて日本全国が一律に統制されるようになったときにも会津はその制度の中に入っていなかったらしい。(6)
そんな古墳時代的田舎に当時最先端である前方後円墳(それも結構大きい)を造る技術や、三角縁神獣鏡がもたらされたのはなぜなのか。気になる。気になりませんか。

物の本によると、弥生時代の終わり頃から古墳時代の初期にかけて、北陸方面から移住してきた人が多かったらしい。例えば土器は北陸起源のものが増えてくる。現地人と新しい文化を持ってきた移住者が共存していたようです。(7)古墳の形にしても、上に書いたように会津大塚山古墳は新潟との関連がありそうだ。

▲稲荷塚遺跡出土土師器。口の部分が直線的に広がるのが北陸様式らしい。

そういう状況で会津盆地の中はおおむね3つの地区でまとまりをつくるようになる。そのうちの一つが西部(杵ガ森や亀ヶ森など)、また一つが南東部(会津大塚山など)のグループである。3つの地区はゆるやかに連合して会津としてのまとまりももっていた。(2)
倭の中央政権としては辺境とはいえ人口が増えて成長してきた会津と友好関係を結んで勢力を拡大したい。会津連合としては最先端の物資を手に入れたい。という利害の一致で大きな古墳を造る技術や三角縁神獣鏡会津にもたらされた。(2)
しかし今日見たような大きな古墳(古墳時代前期のもの)が一通り造られたあと、古墳時代中期になるとほとんど古墳が造られなくなります。倭政権の方針転換で辺境重視をやめたのではないかとのこと。(2)会津はまたただの辺境に戻り、後には国造制の範囲外になるなど辺境でありつづけた。

▲御薬園にて。

旅の最後に会津若松の御薬園に行きました。会津藩松平氏の庭園である。以前、庭は音を感じるのがいいみたいなことを書いたけど、御薬園もまた音がいいです。歩いていて水の流れる音が聞こえる。少し歩くと聞こえなくなる。また次の水音が聞こえてくる。これによって場面転換がなされる。木の配置によって音の反響がコントロールされているような気もする。特に茶室に向かう道は、はじめは旅の道中のような心細い感じから始まるけれど、橋を渡る手前で風景が急に開けて、水の音は波のようになり、海岸に出たような感覚になる。夏に行ったからか蝉の声も音を構成していて良かった。いい庭です。

トロッコ列車の車窓。

帰りは会津鉄道トロッコ列車。思いのほか良いです。爽快である。

 

〔参考文献〕

(1)現地の案内看板による。
(2)菊池芳朗(2010)『古墳時代史の展開と東北社会』大阪大学出版会
(3)現地の案内看板による。
(4)下垣仁志(2019)「古墳と政治秩序」『シリーズ古代史をひらく 前方後円墳 巨大古墳はなぜ造られたか』岩波書店
(5)都出比呂志(2011)『古代国家はいつ成立したか』岩波新書
(6)篠川賢(2021)『国造――大和政権と地方豪族』中公新書
(7)辻秀人(2006)『シリーズ「遺跡を学ぶ」029 東北古墳研究の原点・会津大塚山古墳』新泉社