古墳の上は鹿だらけ

奈良公園の背後にある若草山の山頂に前方後円墳があって、奈良公園なので墳丘上でフレンドリーに鹿とふれあえます。全国を調査したわけではないけれど、鹿の多さでは日本最多級の古墳に違いない。

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この鶯塚古墳。全長103mで葺石があり(裾のあたりはそれらしい石がコロコロしている)、山頂で眺めは最高で、埴輪や銅鏡も見つかっている、なかなか立派な古墳であります。誰の墓なのかは例によって不明、しかし鶯塚という名前の由来についてちょっとした話があり、江戸時代に建てられた碑によると、

清少納言謂之鶯陵 (『奈良市史』考古編より(1)

清少納言これを鶯のみささぎという。
言ったのか? 謎。さて。

ちょっと調べてみたけども、清少納言が「これが鶯塚だ」と言ったという話がどこから出てきたのかがよく分からないです。少なくとも江戸時代人はそう思っていた。とすると出処はあるはずなのだが。(注)

一応、それらしい「うぐいすの陵」が枕草子の「みささぎは」の段に登場するというので古典文学全集からふたつ引用します。「春はあけぼの」と同じく、清少納言が陵(偉い人の墓)の良いものを列挙している、とのこと。

まずは小学館のほう(2)

みささぎは うぐるすのみささぎ。かしはぎのみささぎ。あめのみささぎ。

「うぐるす」は誤植ではなく底本のママのようです。「うぐゐす」の間違いという解釈のなのか。注によると、うぐいすの陵とは「所在不明。能因本・前田家本に「うくひすのみささぎ」とあり、仁徳陵の別名か」。若草山じゃなくて大仙陵だってことになってるじゃないっすか。

次は岩波の全集(3)

陵は 小栗栖の陵、柏木の陵、あめの陵。

「うぐるす」は間違いではなく小栗栖という地名のことだとする説。小栗栖と言えば京都の南、明智光秀が討たれたところですね。「うぐるす」という音から割りとすんなり連想できたので自然な感じはしたけど、そのあたりに陵と呼べるほどの大きな古墳はなかったような気がする。でももしかしたら、あるのかもしれないし、あったのかもしれない。そしてやはり若草山ではない。

 

ここからは何の確証もない話。感想文だ。


陵は 鶯の陵 柏木の陵 雨の陵


こう並べたときに、すごく良いなあと思ったのです。鶯、柏、雨。季節ですね。春になって桜が咲いて鶯の鳴き声がする。新緑の頃、柏の葉。梅雨が来て雨が降る。陵はその時期が良いのです、と。しっとりしたエッセイじゃないですか。こう読む場合の陵は、陵と言えばあの古墳だろうという暗黙に特定可能なもの(the MISASAGI)ということになるので、それこそデカさで大仙陵古墳か、そうでなければ先帝の墓とか、そのあたりか。清少納言が陵にお参りして、陵はやっぱこの時期がいいなあと思ったという、勝手な想像だけれども。

そういうわけで、清少納言からこの鶯塚にどう繋がるかは不明のままです。(注)
奈良市史に戻ると、前方部の南側に小さな古墳(陪冢)が3つあるということなので、これじゃないかと当たりをつけて撮った写真を並べておきます。

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▲山頂一号墳(たぶん)は手前の鹿がいるところ。奥は鶯塚古墳本体です。わずかに盛り上がっているだけなので言われなければただの地山だ。画面左下に葺石らしいのがある。鹿たちのくつろぎスポットになってた。

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▲山頂二号墳(たぶん)。これも葺石っぽいのが見えている。

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▲山頂三号墳(たぶん)。やや低いところにあるちょっとした盛り上がり。日陰でくつろぎモードの鹿が一頭。

 

(注 2020.05.04)

枕草子からどのように繋がるのか少し追ってみました。というのも引用した碑文の後に「并河永誌」とあり、並河永という人物が書いたらしいことがわかるのですが、先日発売された椿井文書の本(4)にこの並河永(またの名を並河誠所)が紹介されていて、なんとなく経緯が透けて見えるような気がしたのです。

これを書いている現在は新型ウイルスの影響で図書館に行けないのでWikipediaからの孫引きになってしまうのですが、奈良市史からの引用部分以外を含めた碑文全体は次の通りです。享保18年(1733)に東大寺大勧進職の康訓という偉いお坊さんが建てた石碑だとわかる。

享保十八歳次癸丑九月艮辰東大寺大勧進上人康訓建 延喜式曰平城坂上墓 清少納言謂之鶯陵 并河永誌(5)

並河誠所は江戸時代に「五畿内志」という畿内の歴史をまとめた本を書いた人である。というわけで五畿内志の該当部分を探したところ国会図書館オンラインにあった。(6)p.236大和国添上郡の項「平城坂上墓」に、

在鶯山頂 (中略) 枕草子所謂鶯陵即此

とあるのが碑文の出処(?)ということになるか。ただし碑が建てられた1733年はちょうど五畿内志が編集されている時期に当たるので、出処というかほぼ同時進行っぽい。

さて、(4)によると、「五畿内志」の内容は「ずさんな方法」で調査され「推測や思いこみも」「ふんだんに盛り込まれている」ということで江戸時代から一部で批判されていたらしい。例として「王仁墓」。王仁古墳時代の伝説上の人物だが、並河誠所は大阪の枚方にある石をその墓だということにして、「彼の建言を容れた当地の領主久貝氏によって、石碑が建てられ」た。さらに偽文書である椿井文書によって補強され、根拠がはっきりしないまま現在では史跡に指定されて観光地にもなっている。

これを読むと鶯塚古墳石碑にも共通点が多いように思えます。つまり出処が並河誠所で根拠がはっきりせず、現地の有力者の手によって石碑が建てられて、その説が現代まで続いている。

以上を考えると、「枕草子に書かれている」という話は始まりからして事実かどうか疑わしくて、むしろトンデモ学説が発端になって東大寺のお坊さんに石碑を建てさせてしまった面白物件として鑑賞したほうが事実に近い気がする。

なお、現地の解説看板や観光関連のウェブサイトでは「枕草子に書かれている」説がわりと広く紹介されていますが、調べた限り公的機関としては唯一、2010年に作成された奈良県のウェブページで「鶯陵ではないとされる。」と否定的な説があります(7)

(参考文献)
(1)奈良市史:昭和四十六年再版『奈良市史 考古編』吉川弘文館
(2)松尾聰、永井和子(1997)『新編 日本古典文学全集18 枕草子小学館
(3)渡辺実(1991)『新 日本古典文学大系25 枕草子岩波書店

(4)馬部隆弘(2020)『椿井文書――日本最大級の偽文書』中公新書

(5)「鶯塚古墳」Wikipedia(2020年5月4日閲覧)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%AF%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3

(6)並河永(著)、正宗敦夫(編纂校訂)(昭和5)『日本古典全集 五畿内志 中巻』日本古典全集刊行会

(7)「鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)」(2020年5月4日閲覧)奈良県

https://www.library.pref.nara.jp/nara_2010/0089.html

 

(訂正 2018.04.16)

当初、墳丘上の写真を載せていましたが、公園管理事務所に問い合わせたところ「史跡なので入らないでほしい」との回答でした。大変申し訳ありません。踏み跡がありますが、入らないということで、どうかよろしくお願いします。