清水の古墳

 静岡方面へ行く。

 新緑の季節だから山を見たかったが、関東平野には山が無いので関東平野を出る必要がある。とはいえあまり遠出をしたいわけでもなく、関東の周縁くらいがちょうど良い。どうせなら行ったことのない古墳を見ることができればなお良い。
 そこで行きたい場所リスト(Googleのマイマップに未見の古墳や観光地をリスト化してある)から条件に合う古墳を探したところ、清水に三池平古墳があった。衛星写真で見るときれいに復元されていそうである。そうしてここにしようと決める。

 最近は遠出することもめったにないのであまり運賃を気にせずに特急でも新幹線でも使って快適に移動すれば良いという気分だったが、家を出ると貧乏性が膨れ上がってきて結局普通列車の旅になってしまった。青春18きっぷの旅行のようだ。
 熱海から沼津までたまたま特急型の373系普通列車として運用されているのに出くわして嬉々として乗る。沼津で乗り換え。ここから静岡名物のロングシートの電車。富士山が見えていれば吉原か富士のあたりで降りてゆっくり見物しようと思っていたが曇っていたのでスルーして清水へ直行した。

 清水駅から三池平古墳まではバスもあるが本数が少ない(参考:しずてつジャストライン庵原線のトレーニングセンター行きです)。行くのは良いけれど、あまりじっくり古墳を見ていると帰れなくなることもありうるし、自由に行動できなくなる。なので駅前でレンタサイクルを借りた。Hello Cycling。後で調べたらソフトバンク社内ベンチャーで全国に展開しているらしい。我が家の近所にもあった。知らなかった。
 スマホで空車状況を見たり予約したりできるのは便利なのだが、初回はアプリをインストールして会員登録してクレジットカードを登録して……という一連の作業が面倒ではある。その点で行けば地方の駅前とかにある個人商店のレンタサイクルは楽だ。店番のおっちゃんに500円渡すだけでオーケー、みたいな感じだから。ただしHello Cyclingは個人商店ではとても太刀打ちできない数のステーションが主要都市周辺に設置されていて、何度も使うのならかなり便利だろうと思う。

▲借りたチャリ。

 ともあれチャリを借りた。電動なのが良かった。地図ではわからなかったけれど古墳までの道は最後が結構な上り坂になっていて、普通のママチャリだとかなり苦労しただろう。

▲途中、清水JCT

 さてそうしてやってきた三池平古墳です。なんか平べったい。それゆえか作り物っぽい。復元のせいなのか、あるいは元々作り物みたいな設計の古墳なのかはわからない。ただ少なくとも現状よりは高さがあったらしいことは想像できる。というのも後円部には竪穴式石室の天井石が地面に見えているのだが、石室というのは普通はてっぺんから少し掘り込んだ場所に造るので、この上にいくらかの土が盛られていたはずなのだ。あと、前方部には「排水溝」という石敷きの遺構があり、築造時には暗渠だったらしく(1)、つまり前方部も現状よりは高く土が盛られていたようだ。

▲三池平古墳、横から。平べったい。

▲後円部の石室

▲「排水溝」。手前が後円部。奥が前方部。

 作り物っぽさの原因は斜面の傾斜が急だということもあるかもしれない。発掘調査では裾石の積み方から傾斜角38°と推定されていて(1)、それに近くなるように復元されているように見える(あるいはそれよりも急なような……)。しかし古墳の傾斜は古い時代(古墳時代前期)は緩めの10~20°で、40°とかになるのは時代的には古墳時代後期であるそうだ(2)。中期初頭という三池平古墳の築造時期ならもっと傾斜の緩いマイルドなプロポーションのほうがありえそうだ。または個人的な好みではなだらかにぬるっとした形のほうがいい。

▲側面は傾斜が急になっている。

 なんとなくの話だけれども、立地というか見晴らしについては柳井茶臼山古墳に似ている印象がある。どう似ているのかというと、前方部から見ると後円部の向こうに目立つ山が見える(儀式的に意味ありげ)、南側が平地に向かって開けていてさらに向こうは海である(港や街道から見える)、というあたり。築造時期はどちらも5世紀初頭頃。その時期の流行りというか、時代背景があったのだろうか。と、築造者の狙いをうっすら想像できる気分になる。

▲前方部から後円部を見ると背後に山がある。

 古墳を降りて、少し時間があったので他に古墳がないかと探してみたら、すぐ近くにあった。行ってみる。

 神明山古墳群。1号墳は前方部が撥形に開く前期古墳。つまり古い。撥形という単語は古墳を巡っている人が見ると「おお」となる。おそらく。なぜなら前方後円墳の初号機であるところの箸墓古墳も撥形に開く。その類型ということなので、全国に多数ある古墳の中でももっとも古い部類に入るのだ。初号機のコピー。遺跡というのは古いほうが良いような気分がある。古い言葉でいうとロマンである。

▲神明山1号墳。奥の土盛りが墳丘。長い年月の間にかなり削られてしまっている。築造時の墳丘の端は白線と石で示されている。

 1号墳よりも少し低い位置には4号墳がある。横穴式石室なので見るからに古墳時代後期のもので、とすると1号墳からは300年くらい隔たっていることになる。発掘調査報告書によると「その被葬者はおそらく1号墳と関係する在地の有力者(血縁者)であったものと推測される」とのこと(3)。しかし古墳時代の権力は必ずしも血縁関係で継承されないとも言われるので、血縁者を想定する必要はないのかもしれない。文字のない時代に300年分の系図は記録できないし、口伝で伝わったとしても途中で伝説とか入ってきてぐちゃぐちゃになってそうだ。

▲4号墳。墳丘はなくなっていて、石室のみがある。

 ちなみに大きな古墳の近くに時期を隔てて別の古墳が造られる事例は他にもあるらしい。すでに事実としての血縁関係は無くなっていても、大きな古墳を造った伝説的な先人との繋がりを主張する目的ですぐそばに自分の古墳を造ったという想定(4)古墳時代という括りの中でもそんな断絶と再構成がある。

 このあと静鉄に乗って静岡へ行き、何をするでもなくぶらぶらしてから帰った。最近は静鉄の電車が新しくなっていてかっこいいです。

静鉄の電車

(参考文献)

(1)清水市教育委員会(2000)『三池平古墳墳丘発掘調査報告書(総括編)』清水市教育委員会
(2)青木敬(2017)『土木技術の古代史』吉川弘文館
(3)静岡市教育委員会(2010)『神明山1号墳・3号墳・上嶺遺跡』静岡市教育委員会
(4)土生田純之(2011)『古墳』吉川弘文館

カルデラの底

ここは阿蘇カルデラの底。

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大観峰より中央火口丘群とカルデラを見る。

阿蘇カルデラの景色はまことに良いです。中央火口丘群だけでも他ではそうめったに見られない火山の連なりであるのだけれど、その周囲はだだっ広い平地であり(それによって中央火口丘群がいっそう際立つ)、さらにその外側に切り立った外輪山が囲んでいる。360度いずれの方向を見ても風景に隙がない。すべてが火山で、ここは火山の底。

古墳時代人はどこにでも古墳造る人々なのでカルデラの底にも古墳を造り、それもひとつ大きなのを造って満足するのではなく、たくさん造ってくれたおかげで現代の我々はとても景色の良い古墳群を見ることができるわけで、ありがたいことです。

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▲小嵐山より中通古墳群を見る。中央左に長目塚古墳がある。右には前方後円墳の上鞍掛塚A古墳など4基。

この写真は中通古墳群のほぼ全体を、外輪山の切れ端のような小嵐山という小山にある展望所から眺めたものです。ほぼというのは木が生えていて一部が見えないということなのだけれど、この写真を撮った位置からさらに登れそうな感じもあり、また発掘70周年を記念して山頂の木を伐って眺望を良くしたという話もあり†、山頂までもう少し登っておけばよかったとも思っています。

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▲前掲写真の左端の木に遮られて見えなかった勝負塚古墳(左下)と入道塚古墳(その上の小古墳)。背後に根子岳

現存10基はいずれも草が刈られていて形がよく見えます。立入禁止とかの表示はないので道に接している古墳はひとまず上に登っても問題なさそうです。群中の最大かつ唯一発掘調査されている前方後円墳である長目塚古墳は、少なくとも現状残っている形は、前方部が(河川改修でほとんど削られたが)低くてくびれ部がちゃんとキュっと絞られていて個人的に好きな形であります。

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▲長目塚古墳を南から。元々はこの右側に前方部があった。背後は象ケ鼻と小嵐山(古墳の右)。

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▲長目塚古墳のわずかに残った前方部より後円部を見る。右奥に大観峰が見える。

ところで、カルデラの「底」という立地について、広い田んぼができるくらい農業に向いた土地なのだから古墳を造る人々が住み着いたんだろうという大雑把な理解だったのですが、

普通、古墳というのは高いところ、集落から見上げるところに造っているのが通例なんですね。同じ阿蘇の中でもそういう場所に造ってある古墳も当然あるのに、中通古墳群だけは全部低いところにある。


阿蘇以外から来られているという方は分かると思うのですが、非常にカルデラの内外というのは行き辛い。比高さ(ママ)があるし、当時は道がないから大変であっただろうと。†

という話であり、なるほどちょっとした謎だ。
この古墳群があるのは川沿いで、つまり本当にカルデラの「底」だけど、普通はあまりそういう低いところに造るイメージではない。それから、カルデラ内外の交通ということについて言えば、今回は東から豊肥本線で来るときに長いトンネルを抜けたし、西へはスイッチバックで下った。数年前には集中豪雨で不通になったりもした。険しい山道であって、古墳時代的な意味で交通至便とは言えそうにない。

じゃあなんでそんなところにわざわざそれなりの規模の古墳群を造ったのかというのは考えれば諸説出てしまう感じのようですが、もし古墳時代人がカルデラの底の風景を気に入ったのからだという説があるのなら、支持してみたい気分はある。

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▲車塚A古墳。木が1本生えていてアクセントになっている。

もうひとつ、カルデラの南半分である南郷谷に柏木谷遺跡という古墳群があります。時期的には4世紀~6世紀の土器が出土しているそうで、中通古墳群と同じ頃ということになる。しかしこちらは小さめの方形周溝墓と円墳が高密度でひしめきあっていて、立地も底よりは少し高い緩斜面にあり、様相はやや違っています。中通古墳群が広く壮大でやや都会的な美意識であるのに対して、南郷谷の柏木谷遺跡のほうが素朴で田舎的な風景という感じがする。

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▲柏木谷遺跡の古墳群。背後に中央火口丘群が見える。

現在は道の駅のパークゴルフ場内にあり、古墳の間を縫ってパークゴルフができるようになっています。ゴルフをせずに古墳を見るだけでも入場できました。

 

〔参考文献〕
阿蘇市教育委員会(2021)『長目塚古墳発掘70周年・熊本県史跡指定60周年・出土品熊本県重要文化財指定記念シンポジウム記録集:中通古墳群を考える』阿蘇市教育委員会

埴輪馬のたてがみ

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世間ではウマが流行っているので馬について考えてみる。これは何年か前に東博ミュージアムショップで買った埴輪馬。おそらく東博所蔵の熊谷市出土埴輪がモデルになっていて、もともと埴輪馬の中でもプロポーションの整った個体(と思う)がさらに少し丸っこくデフォルメされることによっていっそうかわゆさが増しているように思われます。それだけでなく、モデルになった埴輪馬の画像と比べてもよく再現されていてミニチュアとしての出来が結構良い。

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▲出典:ColBase「馬形埴輪」埼玉県熊谷市上中条出土

埴輪馬の馬具は古墳の出土品にも同じものが多数見つかっているので、実在の馬をそれなりに再現したものであるように思えます。だからといって完璧な再現とは限らないんだぜ、という注意はあるが。

馬形埴輪の馬具・馬装表現が実物の忠実な再現である保証はなく、あくまで埴輪工人の認識を経た表現である点には注意を要しよう。(1)

そういう前提で見る必要はあるのだけれど、埴輪で表現された古墳時代馬に対する違和感というのが以前からありました。それがこの部分。

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ひとつめは、たてがみが魚の背びれみたいに立っていること。どうせ埴輪なんだからどうってことないじゃんって感じですか。繊細な毛の造形が難しいから省略しただけという可能性はたしかにある。でも競馬場とかで馬を見るとたてがみはサラッと風になびいてそれが馬の美しいポイントでもあるのだが、埴輪馬のそれはなんか剛毛が立ってるようで、かわいい系デザインのわりにここだけ硬派っぽくてなんかアンバランスな感じがする。

もうひとつは、たてがみのおでこの部分にある謎の角みたいな出っ張りです。古墳とかの出土品でこれに相当する物を見たことがないので土中で残るような材質(金属)ではなさそうだし、埴輪を見る限り頭絡には繋がっていなくて、とすると有機質のものをおでこにペトっとくっつけていたのか? 謎、である。

それが、最近になって馬の本を読んでいたら面白そうな話が書いてありました。埴輪馬みたいな直毛のたてがみの馬がいるんだぜ。

秦の兵馬俑の馬のたてがみも直立しているが、唐代になると長く垂れ下がるたてがみが表現される例がある。ヨーロッパ旧石器時代の壁画に描かれた馬の図像学的分析からは、このような長いたてがみは家畜化の結果で、壁画に描かれた野生馬ではモウコノウマのような直立したたてがみを持つことが明らかにされている。(2)

家畜化されて世代を経ることでたてがみが直立系からサラサラ系になるということがあるようである。そしてモウコノウマ、調べてみたら現代日本でも動物園にいるらしいということで見に行ってみました。するとたしかに、たてがみは立っていた。

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▲モウコノウマ、多摩動物公園

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▲たてがみ部分の拡大写真

全体のプロポーションは埴輪馬のそれにかなり近いです。そして面白いことに、埴輪馬に感じた違和感……つまり、かわいい系の見た目にもかかわらずたてがみだけが硬派でアンバランスに見えるのが、現実のモウコノウマにも存在している。ということは埴輪馬の違和感は当時の現実を忠実に反映した結果なのかもしれない。もともと直立系たてがみだった古墳時代馬が選択を経て現代のサラサラ系になったのだとすると、話はすっきりします。

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▲北海道和種、多摩動物公園

もうひとつの謎であるところのおでこの出っ張りについては、たてがみの先端を束ねてちょんまげのように飾っているのだとする解説を見つけました(ただし出典が書いてないので研究の経過はわからず)(3)(4)。まあ古墳時代人は髪を結うの好きそうだし(美豆良とか)同じ美的センスで馬の髪も結ってみたというのは無いことも無さそうである。という雑な思考を巡らせたところで馬についての考えを終わる。


〔引用・参考文献〕
(1)    辻川哲朗(2019)「馬形埴輪と馬飼形人物埴輪」右島和夫(監)『馬の考古学』雄山閣
(2)    植月学(2019)「東国の古墳時代馬」同上
(3)    松島榮治(監)(2021)「6 埴輪トリビア」『東国文化副読本』群馬県
(4)    松阪市文化財センター『はにわ通信』No.283 平成30(2018)年10月号
(5)    ColBase「馬形埴輪」https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-838(2021年10月9日閲覧)

あたりのようす

古墳てのはなにしろ、千何百年か前の先史時代に造られたデカくて見た目ピカピカで幾何学的な形状の構造物であるという、その点が圧倒的なのです。しかもそれが現代に復元されて住宅地の真ん中にあったりすると威容にウヒョーて思ったりする。いつだか神戸の五色塚古墳なんか見に行って、冬の朝日に照らされた墳丘が輝いているのを見てウヒョーて思ったもんさ。

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五色塚古墳の前方部から後円部を見る。住宅地に囲まれている。

行政のプレスリリースとか新聞記事でこういう復元古墳はよく「築造当時の姿に復元」とか書かれていて、なるほどなあと思いつつ、ところであるときふと思ったんですが、築造当時の古墳の“姿”はともかく“あり方”はこうではなかったはずですよね。少なくとも五色塚古墳の周辺は近代的な住宅で囲まれてはいなかったし、明石海峡大橋山陽電車もなかった。すると竪穴住居に囲まれていたのか? 水田が広がっていたのか? 道があったのか、それとも森林や原野か。それがわかると当時の時代の気分みたいなものが想像できるような気がするものです。人が大勢行き交う場所に威風堂々と輝いていたのか、ひとけの無い場所でひっそりと佇む静かなお墓だったのか、とかも。

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五色塚古墳の近くには明石海峡がある。海と古墳の間にJRと山陽電車の線路。

それで少し調べたら、花粉分析で周辺の植生を明らかにしようという研究がなされているそうです。つまり古墳周辺(多くは周濠の底)に堆積した花粉を同定することで近くに生えていた植物がわかるということで、結論の部分だけ引用してしまうと、

古墳時代奈良盆地東部の植生は、基本的にアカガシ亜属を主とする照葉樹林が発達してきたが、(中略)二次林が部分的に出現し、人為的な影響による草本の多い環境が広がりつつあった。(1)

古墳は築造後に人の手が入ることなく、自然に植物が生育するままになっていたと考えられる(2)

被葬者の2・3世代後には古墳築造当時の景観が失われるほど二次林化が進んでいた(1)

とのことで、基本的には周辺には森林が多く徐々に人が進出している状況で、一時的に切り開いて古墳を築造しても放ったらかしで林に戻っていったようです。

とすると、住宅地みたいなひらけた場所に遠くからでも見えるようなデカい考古学的建造物がある=すごい、という現代人的認識はどうも古墳時代人の狙いとは違うのかもしれない。森が多かったとすると大抵の場所からは古墳程度の高さのものはあまり見えず(現代でも周辺からは家が邪魔でほとんど見えないけど)特定のビューポイントから眺めることが想定されていそうだし、維持する気がないなら現代にピカピカ状態で復元されるのは想定外ということになる。したがって復元古墳を古墳時代人が見たら「余計なことしやがって……」と思うのかもしれない。(あるいは「できることならそうしたかった」という可能性もなきにしもあらず)

古墳は築造後より、築造することにより大きな意義があったのかもしれない。(2)---(3)より孫引き

古墳は埋葬の儀式をする期間だけの臨時的な祭壇にすぎないのかもしれず、もしそうだとすると一時の儀式のためにあんなにデカいものを造ってしまう熱狂というのはなんかヤバいですね。

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▲木に覆われた下船塚古墳。これは本来目指した姿なのか?

【参考文献】
(1)金原正明、泉武(1989)「花粉分析からみた奈良盆地東部の古墳時代植生の検討」『考古学と自然科学』21、日本文化財科学会
(2)東郷隆浩(2020)「古墳の築造と周辺植生」『大阪府立近つ飛鳥博物館館報』23、大阪府立近つ飛鳥博物館
(3)金原正明(1997)「自然科学分析による古墳築造後の景観変遷からみた古墳崇拝観」『宗教と考古学』勉誠社

盛るか掘るか

「狛江は古墳がたくさんあるようなのでまたあらためて来ようと思います。」と書いてから3年が経ち、ようやく重い腰を上げて狛江古墳群のあたりを歩いてみたりしている。都内の住宅地ということで一帯は開発されて残りの良い古墳はほとんどないけれど、いくつかは古墳公園になっていたり柵で囲ってあったりして、かつて百塚と呼ばれたという古墳群のひとかけらほどの様子を窺えます。

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▲石碑がたっているのが亀塚古墳(の前方部のかけら)。手前の植栽が曲線を描いているのは周濠を表しているとのこと。

ひとかけらというのは本当にひとかけらだったりして、例えば亀塚古墳は帆立貝形古墳のただでさえ小さい前方部の一部だけが残っている。それ以外の部分も削られて住宅地になっているためか復元はせずに現状のひとかけらのままで公園になっています。周濠の一部が植栽で表現されていて、わずかに残った前方部と周濠の位置をもとにイメージを膨らませて往時の姿を頭の中で再現することができる、かというとそうでもない。あまりにも手がかりが少なくて、触手の化石からアノマロカリスを復元せよというようなものである。

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▲亀塚古墳の実際に残っている部分は前方部の一部でしかない。

そういう具合ではあるけれど、ともかく5~6世紀にかけて、約1500年前の狛江市民はあちこちにたくさん土を盛った(むろん当時は狛江市民という概念も区別もないですが)。さらに6世紀にそれが途絶えてからは、隣の喜多見で横穴式石室の古墳を造り始めていた人々がやってきて引き続き土を盛った。猪方小川塚古墳がその最終期にあたり7世紀の半ば頃ということです。そうして狛江あたりでみんながこぞって土を盛った結果、現代でも首都に接していながら古墳の痕跡が多く残っています。

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▲猪方小川塚古墳。中央左が墳丘。建屋内に横穴式石室が保存されている。手前のくぼみは周濠の再現のようです。

さてここで唐突に多摩川を渡る。小田急線の和泉多摩川から登戸まで、東京都と神奈川県の県境であると同時に狛江市と川崎市の市境。

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小田急線の鉄橋。

鉄橋を挟んだ駅間距離は1kmに満たないのだけれど、7世紀頃の文化はどうも川の両岸で違っていたようで、川崎市側では古墳を盛ることはせずに斜面に穴を掘った横穴墓が多いです。狛江で猪方小川塚古墳を盛っていた頃、川崎市民は多摩丘陵の斜面を掘っていたことになる。

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▲生田緑地の斜面にある長者穴横穴墓群。

当時は登戸駅前の建物はないから、横穴墓の裏山にあたる生田緑地に登れば狛江古墳群が川向うに見えたはずです。「狛江の連中、あいかわらず土盛ってんな」と川崎市民が眺めながら言ったかどうか。

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▲生田緑地から新宿方面を望む。左端のあたりが狛江。

古墳に横穴式石室を造るのも斜面に横穴墓を造るのもどっちも横穴なので大した違いは無いような気がしていたのですが、しかしよく考えてみると全然違いますね。、古墳は石室を作ってから土を盛るので、地表にどんどん積み重ねて盛っていくだけで掘ることがない。反対に横穴墓は斜面に穴を掘るだけで全く盛らない。盛り土とトンネルでは技術的に別物です。あと、古墳は出っ張るので遠くからでも目立つけど、横穴墓は穴しか見えないので目立たない上に谷筋にあって余計に外からは見えない。とすると見せ方(見られ方)も違うようである。それでありながら横穴墓の穴も横穴式石室も形状に共通点があるので「こういう形の穴に偉い人を葬るべきだ」という文化は共有していたっぽい。

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▲道路に面した横穴は塞がれている。

川を渡れば異国があるという、現代日本も地域ごとにいろんな特徴があればおもしろかろうなあと思うものです。きっと旅行が楽しくなるはずです。

(参考文献)
(1)狛江市教育委員会(2013)『狛江市文化財調査報告書28:狛江古墳群 猪方小川塚古墳発掘調査報告書』狛江市教育委員会
(2)池上悟(2015)『横穴墓論攷』六一書房

楽寿園の満水

少し前のことになりますが、三島の楽寿園の池が満水になったと聞いて行ってみた。数年前に初めて行ったときは水が無くて岩だらけの池の底がむき出しになって、綺麗な庭とは言いがたかった(正直なところシケた庭だと思った)が、満水になると見違えて生き生きとした様子です。湧き水の具合でこんなふうに池に水があったりなかったりするらしい。

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庭というとひとつの庭のなかに複数の表情があるような、例えば水の流れる音がしたかと思えば数歩先には静寂があるような、そういうのが好きなのですが、満水の楽寿園はまさにそういうのがあります。広々と水をたたえた池があるかと思えば、勢いよく流れ下る急流があり、

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ゆるやかな流れがあったりもする。

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歩けば、湧き水、せせらぎ、ゆるやかな流れ、激しい流れ、止まった水面が移り変わる。そして水はとても澄んでいる。さまざまな水の音が聞こえる庭は他にもあったと思うけれど、いろいろな水の姿を見せるということではなかなか他に無さそうである。この澄んだ水でこういうふうに流れを見せるというのが湧き水の多い三島らしい。

ところで楽寿園の中にある郷土資料館の玄関脇に古墳の石棺が置いてあります。

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展示なのだけど置いてあるというほうが印象に近い。意地悪に言えば打ち捨てられている。素人目にはただの石棺だけど、専門家が見ると片方の幅が狭くなっていて且つ「形が著しく崩れて末期的な様相が窺われ」ることから奈良時代の石棺であるそうです。*

奈良時代というと偉い人の墓では火葬が普及して古墳が造られなくなったイメージだけれども、三島のあたりではその後もしばらく造られていたらしい。沼津でもなかなかカッチョ良い上円下方墳(清水柳北遺跡1号墳)があり、愛鷹山麓古代人のレトロ趣味なセンスが光る。

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▲清水柳北遺跡1号墳

楽寿園内の動物園ではアルパカと、

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馬がいる。

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この馬は与那国馬で、日本在来馬であり、体が小さいです。そして古墳時代人が乗っていた馬もこの手の小さい馬だったということなので、古墳時代人の気持ちがわかるかもしれないと思ってしばらく見ていた。見ていて思ったのは、体がこんなに小さくて人を乗せられるのかしらということである。鎧を着たこわいおじさんが乗るのはかわいそうな感じもあり、とすると古墳時代ピープルの気持ちとしては乗るよりも綺麗に飾って可愛がって眺めてニヤニヤしていたいと考えてもよい。

実際のところこのサイズだと「人懐こい鹿」みたいな感じで、当時としてもめちゃ強の軍用車というよりも大陸から来たなんかかわいい鹿っぽいやつみたいな、アルパカ的な扱いだったとしても良いかなという気はする。古墳時代は平和であってほしいという夢のような希望的想像である。

(*)軽部慈恩(1957)「古墳文化」『三島市誌』上巻:三島市教育委員会(編)(2007)『三島市埋蔵文化財発掘調査報告XII』に再録

傾斜量図地形見物

少し前に、研究者が国土地理院の傾斜量図を使って未知の古墳を発見したというニュースがあった。

www.kobe-np.co.jp

傾斜量図、さっそく使ってみたらこれはおもしろいですね。国土地理院がそんなおもしろツールを公開してるって知らなかった。何がおもしろいかというと、例えば火山を眺めると衛星写真では木に覆われて見えないような地形が見えて、ここに火口があるとか、火砕流がこっちに流れたとか、ワクワクします。ワクワクするだけであって学問的な何かを追求するわけではなくて阿呆な感じだがそれでよい。あと、古墳も大きなものはよく見えます。これも樹木が無い裸の形が見えるので残り具合がよくわかる。なので、この古墳は形が良いのでいちど見に行きたいとか、古墳のありそうな場所を適当に流し見して目についた形のいい古墳に注目してみるとかいう使い方をする。

maps.gsi.go.jp

そしてそういう使い方をしてしまうと深みにはまります(はまった)。傾斜量図から未知の古墳を探すのは専門家の領分であって、素人が真似をしてああだこうだと言うのはただでさえ阿呆っぽいのがより一層阿呆っぽくなるのはわかっている。しかしひとたび地図を東西南北に流し始めると目が皿になってしまったのだ、これはあかん。あかんあかんと思いつつも、今まで古墳がなかったはずのあたりになんか丸と四角がくっついたような地形を見つけて、「アッタ、アッタ」と心を躍らせる、そういう阿呆っぽい話です。

これなんですが、なんか丸と四角がくっついてるっぽく見える。場所は伊豆半島の付け根のあたりで、箱根山の裾が平野に消えるあたり。

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▲丸と四角のくっついたような地形(真ん中)

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▲位置

しかし見つけたと言っても目につくようなものはたいてい専門家が記録してるはずなので、次は静岡県の遺跡地図(静岡県GIS)で確認しました。すると目当ての場所はすでに木戸古墳という名前がついていた。そりゃそうだという感じだ。素人に出番はない。それで検索して、出てきた論文の引用元をたどって、おそらく一番最初に木戸古墳を報告したらしい論文を見つけて読んだ。興味深いことに、地理院地図で怪しげな地形を見つけて調べたところどうも古墳っぽいということになったらしい。[笹原芳郎(2016)「ジオ・アーケオロジーによる前方後円墳の再確認」『静岡県考古学研究』47]
4年を経て車輪を再発明してしまったわけです。以下は論文の経緯を引用します。

2014年12月のなかごろ、…未確認の前方後円墳が存在するとの情報が得られた

(注:天城ビジターセンターで)展示されている「赤色立体地図」のなかに、「前方後円墳らしい地形がみえる」とジオパーク関係者で話題になっているとのことであった。

そこで国土地理院が公開してるデータから起伏陰影図を作成(この時点ではまだGoogleマップふうにグリグリ動かせる起伏陰影図は公開されていなかったぽい)して、たしかに前方後円形であることを確認した。さらに3次元化して形を確認した。しかしこの時点で古墳であるかどうかについて少しばかり疑いが投げかけられています。

後円部北側が削られたように傾斜がつよく、周囲の丘陵部が墳丘よりも高いことが気になる点である

田方平野からは周囲の丘陵に阻まれて、墳丘全体をみることができる範囲はせまい。このような立地が前方後円墳の築造地として妥当かどうか疑問ではある。

著者はその後現地に赴いて確認したが雑木林で形状がよくわからなかったという。そこに後追いで行ったところで何か得るものがあろうはずもないのだが、こうやって見つけたのも何かの縁なので現地に行ってみた。

ところでこうやって有名でもない(古墳かどうかすら怪しい)古墳を見に行くと物好きな奴だと言われるのですが、見知らぬ土地を徘徊する趣味の一環という面もあって、目的地になるものであれば古墳に限らずなんでもよいです。以上言い訳。

西側の平野から、北と南の台地に挟まれたちょっとした谷のようなところへ農道を伝って入っていくと、入ったあたりでようやく墳丘(っぽいもの)が見えてきた。指摘の通り平野からは見えないです。この谷が奥の集落へのメインルートだとするならここに造るのもなしではないかなという気はする。

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▲平野の農道から

近づくとちょっと「ムムム?」みたいな感じになった。墳丘(っぽいもの)の西側と南側は結構真っ直ぐな法面になってて、歴史的に新しい時代に削ったように見える。削ったら前方後円墳の形になっただけのただの盛り上がりのような、ハズレ物件のニオイがややある。いつもなら前方後円墳の前にたどりつくとたとえ雑木林でも「前方後円墳だヤッター!」みたいな楽しさはあるのだが、確証が揺らいでいてことによるとただの丘かもしれないのであまり喜べない。なにやら空虚な気分である。

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▲前方部南西角付近

せっかくなので空虚ついでに空虚な穴を見てきた。すぐ近くに柏谷横穴群があります。きれいに整備されていて横穴に入ることもできて楽しい。お子様たちの遊び場にもなってるようです。

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▲柏谷横穴群