大きなぼたもちの下で

ぼたもちを食いたい欲求が日に日に高まる。

我が家では年に一度はぼたもちを作る会が催され、ゆえに年に一度はぼたもちをたらふく食べていたために、大人になっても年に一度はぼたもちを食べたくなるのである。じつに教育の効果という感がある。

それで、今年もぼたもちを食います。しかしカロリー摂取量が気になるお年頃になってしまったので相応のカロリーを消費しつつ食わねばならない。それを念頭に、とりあえずナイスなチャリで出発。

まずはぼたもちをどこで買うかですが、大きな寺の門前なら餅屋か団子屋があるだろうと思われたので、ほどほどに良さそうな距離にある高幡不動へ行った。行ったらちゃんと名物のまんじゅう屋があり、おはぎの幟が出ている。

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余談なんですが、ぼたもちとおはぎの区別はあるのか。単に言葉の違いだけであるか、作り方も違っているのか。子供の頃食っていたのはぼたもちだけで、おはぎを食ったことがない。ネット情報ではどちらも同じもので「春はぼたもち、秋はおはぎ」と使い分けるべきだと言ってるサイトもあるけれど、ともかく我が家ではおはぎはなかったし、あるいは西日本の一部地域は、というくらいまで主語を大きくしてもよいかもしれない。言葉については、「おはぎ」ってなんか間接表現でお上品ぶって澄ましちゃってヤーネ、という、なんかそんな感じが子供心にはありました。ぼたもちに「お」を付けて「おぼた」とでも言えば西日本の匂いがしなくもないけれど、まあ、適当な話。

ともかくぼたもちでないと困るので、はんごろしのつぶあんのやつを買って、店としてはおはぎかもしれないけれど、ぼたもちと名付けることにする。

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▲今からおまえの名前はぼたもちだ。いいかい、ぼたもちだよ。わかったら返事をするんだ、ぼたもち。ぼたもち「はいっ」

つづいてぼたもちをどこで食うか、それについては目星がついていたので、ハケを登って府中を目指します。

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▲大きなぼたもち

熊野神社古墳。上円部の葺石が見事につぶあんを表現しており、下方部がぼたもちを置く皿に相当するという説が、ことによるとあるかもしれない。ないかもしれない。
ともかくここで包みを開く。

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大きなぼたもちの下でぼたもちを食った。おはぎがぼたもちとは違うものだったら困ったことになるのですが、ちゃんとおいしいぼたもちの味でしたよ。

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ごちそうさまでした。

それでもガラパゴス

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日本海をのぞむ崖の上の古墳群。日本海からの風雨で削られていまはもう土盛がなくなっているけれども石室の材は残ってます。ここ好きなんですよね。年に一度は来てる。何かというと、地の果て、この先にはユーラシア大陸古墳時代にあっては先進文明をもたらす源泉、があった。近代のはじめに坂本龍馬が太平洋を見てアメリカに憧れたみたいに、古代にもここでなんか叫んだ若いのがいたかもしれない、という想像もありではないか。今は若者の少ない過疎地だけれどもね。日本海の交易が盛んだった頃は、冬が終われば貿易船がやって来たかもしれない。夢があったんですね。そういう夢のようなことを考えていると、冬の潮まじりの北風が吹きつけるような日に行っても(この写真を撮ったのがそういう日だった)なかなか意味ありげな風景に見えますね、などと思うのです。

ところで物の本によると、偉い人のためにデカい墓を造る文化は日本に限った話ではなくて、どこでもあります、ピラミッドとか。中国にもあるし朝鮮半島にもある。それが日本海の北風みたいに日本に打ち寄せてきて、島国のことだから勝手に解釈して魔改造して変な形にしたりやたらデカくしたりした。そうやってガラパゴス化したのである。というようなのが歴博の企画展

(企画展示|展示のご案内|国立歴史民俗博物館:~2018.5.6)

の解説にもあり、なるほどその通りだなあと思ったのです。古墳は国内の視点だけで見ると「世界に並ぶレベルのデカさ」とか「全国に十万基以上もあってスゴい」となるけれども、世界全体を見たときにはそれはどっちかというと「変」なのである。なんでこいつらそんなことに熱狂してるのか……。ただ、この辺境感、田舎者がやらかした感、というのはおかしみがあってそれはそれで良い気がします。オタク文化もそうですか。あるいは田舎の何もない駅前でウンコ座りしてる高校生、なんとなく可愛げがあるでしょ。そんな感じ。

歴博の展示といえば、北アメリカのマウンドが紹介されていました。いつか誰かにアメリカに古墳なんてネーヨと偉そうに言ってしまったことがあった気がするのですが大変すみませんでした。一応言い訳ですが、必ずしも墓ではないらしいので古墳ではないのです。あと、造った人のことをマウンドビルダーって言うらしいですよ。よく訓練されたガチムチオッサン集団がマッチョに土を盛ってそうな、アメリカ感あって良いですね。これ日本もコフンビルダーって呼んでみたら、ホームページビルダーみたいな庶民的な感じになります。そういうわけでまたアメリカに行きたい。

→ミシシッピ文化 - Wikipedia

古墳の上は鹿だらけ

奈良公園の背後にある若草山の山頂に前方後円墳があって、奈良公園なので墳丘上でフレンドリーに鹿とふれあえます。全国を調査したわけではないけれど、鹿の多さでは日本最多級の古墳に違いない。

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この鶯塚古墳。全長103mで葺石があり(裾のあたりはそれらしい石がコロコロしている)、山頂で眺めは最高で、埴輪や銅鏡も見つかっている、なかなか立派な古墳であります。誰の墓なのかは例によって不明、しかし鶯塚という名前の由来についてちょっとした話があり、江戸時代に建てられた碑によると、

清少納言謂之鶯陵 (『奈良市史』考古編より(1)

清少納言これを鶯のみささぎという。
言ったのか? 謎。さて。

ちょっと調べてみたけども、清少納言が「これが鶯塚だ」と言ったという話がどこから出てきたのかがよく分からないです。少なくとも江戸時代人はそう思っていた。とすると出処はあるはずなのだが。(注)

一応、それらしい「うぐいすの陵」が枕草子の「みささぎは」の段に登場するというので古典文学全集からふたつ引用します。「春はあけぼの」と同じく、清少納言が陵(偉い人の墓)の良いものを列挙している、とのこと。

まずは小学館のほう(2)

みささぎは うぐるすのみささぎ。かしはぎのみささぎ。あめのみささぎ。

「うぐるす」は誤植ではなく底本のママのようです。「うぐゐす」の間違いという解釈のなのか。注によると、うぐいすの陵とは「所在不明。能因本・前田家本に「うくひすのみささぎ」とあり、仁徳陵の別名か」。若草山じゃなくて大仙陵だってことになってるじゃないっすか。

次は岩波の全集(3)

陵は 小栗栖の陵、柏木の陵、あめの陵。

「うぐるす」は間違いではなく小栗栖という地名のことだとする説。小栗栖と言えば京都の南、明智光秀が討たれたところですね。「うぐるす」という音から割りとすんなり連想できたので自然な感じはしたけど、そのあたりに陵と呼べるほどの大きな古墳はなかったような気がする。でももしかしたら、あるのかもしれないし、あったのかもしれない。そしてやはり若草山ではない。

 

ここからは何の確証もない話。感想文だ。


陵は 鶯の陵 柏木の陵 雨の陵


こう並べたときに、すごく良いなあと思ったのです。鶯、柏、雨。季節ですね。春になって桜が咲いて鶯の鳴き声がする。新緑の頃、柏の葉。梅雨が来て雨が降る。陵はその時期が良いのです、と。しっとりしたエッセイじゃないですか。こう読む場合の陵は、陵と言えばあの古墳だろうという暗黙に特定可能なもの(the MISASAGI)ということになるので、それこそデカさで大仙陵古墳か、そうでなければ先帝の墓とか、そのあたりか。清少納言が陵にお参りして、陵はやっぱこの時期がいいなあと思ったという、勝手な想像だけれども。

そういうわけで、清少納言からこの鶯塚にどう繋がるかは不明のままです。(注)
奈良市史に戻ると、前方部の南側に小さな古墳(陪冢)が3つあるということなので、これじゃないかと当たりをつけて撮った写真を並べておきます。

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▲山頂一号墳(たぶん)は手前の鹿がいるところ。奥は鶯塚古墳本体です。わずかに盛り上がっているだけなので言われなければただの地山だ。画面左下に葺石らしいのがある。鹿たちのくつろぎスポットになってた。

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▲山頂二号墳(たぶん)。これも葺石っぽいのが見えている。

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▲山頂三号墳(たぶん)。やや低いところにあるちょっとした盛り上がり。日陰でくつろぎモードの鹿が一頭。

 

(注 2020.05.04)

枕草子からどのように繋がるのか少し追ってみました。というのも引用した碑文の後に「并河永誌」とあり、並河永という人物が書いたらしいことがわかるのですが、先日発売された椿井文書の本(4)にこの並河永(またの名を並河誠所)が紹介されていて、なんとなく経緯が透けて見えるような気がしたのです。

これを書いている現在は新型ウイルスの影響で図書館に行けないのでWikipediaからの孫引きになってしまうのですが、奈良市史からの引用部分以外を含めた碑文全体は次の通りです。享保18年(1733)に東大寺大勧進職の康訓という偉いお坊さんが建てた石碑だとわかる。

享保十八歳次癸丑九月艮辰東大寺大勧進上人康訓建 延喜式曰平城坂上墓 清少納言謂之鶯陵 并河永誌(5)

並河誠所は江戸時代に「五畿内志」という畿内の歴史をまとめた本を書いた人である。というわけで五畿内志の該当部分を探したところ国会図書館オンラインにあった。(6)p.236大和国添上郡の項「平城坂上墓」に、

在鶯山頂 (中略) 枕草子所謂鶯陵即此

とあるのが碑文の出処(?)ということになるか。ただし碑が建てられた1733年はちょうど五畿内志が編集されている時期に当たるので、出処というかほぼ同時進行っぽい。

さて、(4)によると、「五畿内志」の内容は「ずさんな方法」で調査され「推測や思いこみも」「ふんだんに盛り込まれている」ということで江戸時代から一部で批判されていたらしい。例として「王仁墓」。王仁古墳時代の伝説上の人物だが、並河誠所は大阪の枚方にある石をその墓だということにして、「彼の建言を容れた当地の領主久貝氏によって、石碑が建てられ」た。さらに偽文書である椿井文書によって補強され、根拠がはっきりしないまま現在では史跡に指定されて観光地にもなっている。

これを読むと鶯塚古墳石碑にも共通点が多いように思えます。つまり出処が並河誠所で根拠がはっきりせず、現地の有力者の手によって石碑が建てられて、その説が現代まで続いている。

以上を考えると、「枕草子に書かれている」という話は始まりからして事実かどうか疑わしくて、むしろトンデモ学説が発端になって東大寺のお坊さんに石碑を建てさせてしまった面白物件として鑑賞したほうが事実に近い気がする。

なお、現地の解説看板や観光関連のウェブサイトでは「枕草子に書かれている」説がわりと広く紹介されていますが、調べた限り公的機関としては唯一、2010年に作成された奈良県のウェブページで「鶯陵ではないとされる。」と否定的な説があります(7)

(参考文献)
(1)奈良市史:昭和四十六年再版『奈良市史 考古編』吉川弘文館
(2)松尾聰、永井和子(1997)『新編 日本古典文学全集18 枕草子小学館
(3)渡辺実(1991)『新 日本古典文学大系25 枕草子岩波書店

(4)馬部隆弘(2020)『椿井文書――日本最大級の偽文書』中公新書

(5)「鶯塚古墳」Wikipedia(2020年5月4日閲覧)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%AF%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3

(6)並河永(著)、正宗敦夫(編纂校訂)(昭和5)『日本古典全集 五畿内志 中巻』日本古典全集刊行会

(7)「鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)」(2020年5月4日閲覧)奈良県

https://www.library.pref.nara.jp/nara_2010/0089.html

 

(訂正 2018.04.16)

当初、墳丘上の写真を載せていましたが、公園管理事務所に問い合わせたところ「史跡なので入らないでほしい」との回答でした。大変申し訳ありません。踏み跡がありますが、入らないということで、どうかよろしくお願いします。

伊勢原の鎧塚

鎧塚みぞれ先輩(鎧塚みぞれ - Google 検索)といえばアニメ史上数多い無口キャラの中でもなお麗しき美少女である。という、唐突に出てきたのは鎧塚古墳という名称から連想しただけのことで別段に意味はないです。

しかしついでに思いついたことには、鎧塚というのは古墳由来の名字ではないか。つまり、塚を掘ってみたらたまたま鎧が出てきて鎧塚と名付けた。やがて周囲一体の里を鎧塚と呼ぶようになり、住人は鎧塚を名乗った。その後裔がみじょれ……もとい鎧塚みぞれ先輩である。という具合に。

ネットで少し調べたところによると、富山県射水市に鎧塚姓が多い。姓の由来はおそらく市内にある鎧塚という地名である。そしてさらに不確かな情報だけれども、同地にある大塚古墳の別称が鎧塚という、らしい。ので、おおむね想像通りに話を組み立てられそうです。しかし裏付けがあるわけではなく、またともかく、今日の鎧塚古墳とみぞれ先輩は関係がない。


神奈川県は伊勢原にある鎧塚。見ればすなわち答えなのですが、つまりトンネル・アンダー・ザ・コフンである。古代遺跡と現代建築の融合である。古墳横の看板には、昭和63年の市道拡幅の際に古墳を崩さないようにトンネルにしたとある。

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くぐってみるとそこは古墳の下。じつに古墳の下であるなあという感想です。

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看板情報。

江戸時代の文献にも記載が見られ、室町時代山内上杉と扇谷上杉が戦った実蒔原の戦いの戦死者を葬った塚とも言われていました。
伊勢原市教育委員会

古墳に直接関係のない言い伝えが鎧塚の由来になったわけですが、次のような前日譚を想像することは可能である。

あるとき村人が畑を掘ったら古墳時代の鎧が出た。しかし何の鎧なのか誰もわからない。あるとき物知りがいて、きっと実蒔原の戦いの戦死者の塚だろうと言い、そういうことになった。

ともあれ、千五百年前の古墳によって現代の道路の歩道はトンネルになった。射水市には姓が生まれた。そういう歴史の繋がりかたもあるってことです。

生まれ来る古墳マニアのために

 よくひとりぼっちで旅をしている。というのもひとりぼっちで旅をするのが好きだからなのだが、いつも必ずそうであるわけではなく、十回に一回くらいは誰かと一緒である。ちゃんと誘ってくれる人がいるので意外と完全ぼっちではない。じつにありがたいことです。さらに最近は休日に人と会いたいと思うことがときどきあって、今回は誰かと行こうか、というふうに思い立ったりする。ひとりぼっち趣味人としては大きな心理的変化という気がしている。

 それで、少し前のことながら、石川県へ何人かで行くということがあり、ひとりぼっち旅ではまず泊まらぬだろう超高級温泉宿でGoogleマップを見ていたら近くに古墳を見つけてしまった。ここらへんの嗅覚は、しょっちゅうGoogleマップを転がして古墳探しをしているとありそうっぽい場所が分かってくるようである。とにかく見つけてしまったものは行かねばならないので、マニアでもない人を誘うのは申し訳なく思いながらも古墳に行こうと言ってみた。そしたら行くことになった。

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 秋常山古墳群。1号墳が大きな前方後円墳で、丘陵の上に築いて広い平野を見渡す、いかにもその頃の大首長の墓というべき立地です。(ウフフ)前方部が短いのはいつか削られてしまったからで本来のものではなく、人の世を生きてきた古墳という感じだ。(ホホッ)部分的に葺石が復元されてコロコロしている。(ウフッ)三段築成のテラス。ほどよい墳丘の角度。(アアー)遠くに見える丘にも古墳があるらしい。云々。

 内心盛り上がってはいたのだが、それをいったいどう伝えたものか分からず、とりあえず普通に静かにしていた。自分のニッチな趣味の盛り上がりポイントををいかにして人に伝えるか。実はこれが難しいのである。以前、古墳同人誌でも作るべと思ってネタを考えていたのだが、全部ちっとも面白くないのです。いや自分は面白いんだけど多分普通の人は面白くない。例えば全然興味ないですって顔してるそこらへんのおじさんが本を手に取ったとして、興味が無いのに知的好奇心が湧き上がってきて悔しいけどマニアになっちゃう、というレベルのものはできないか。ハードルが高すぎる? ハハァ。そう、それで結局何も手を付けていない。何もしていなければ何も考えていないも同然である。いけない。

 しかし何にせよ、いかに面白く語れるか、は大切なことなのです。人の心に潜む変態的好奇心を掘り起こしてゾンビのごとく周辺のピープルをマニア化させていく。きっとできるはずなのだ。古墳マニアの芽はいつもあなたの心の中から顔を出そうとしているのだから。何を語ろう。

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▲秋常山1号墳前方部先端からの眺め。もう少し先まで墳丘が続いていたということか。平野は広い。むこうの丘にも古墳があるらしい。

首の皮一枚を繋ぐ橋

 今回ご紹介する古墳はこれです。
 道路である。

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 もう少し具体的に言うと、あの歩道橋のある場所が古墳である。
 しかしそこは道路があるのみ、何もないように見える。古墳マニア、古墳が好きすぎてついに虚空をすら古墳として愛でるようになったのか。狂気にちがいない。

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 現地の看板を見ると一目瞭然なのだが、つまり古墳の真ん中を道路がブチ抜いてしまったために、かつて古墳だったところが虚空となっているわけです。歩道橋は古墳の前方部と後円部を首の皮一枚かろうじて繋いでいる。

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▲最初の写真の右側が現地看板の下側(つまり前方部)にあたり、まずはその角から上がってみることにします。

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 前方部から歩道橋へは少し階段を上がる。墳丘より高いところにあるから、この歩道橋は古墳の上面を残したわけではなく後から新設されたのだろう。古墳の上部を残して下だけ刳り貫いて保存してあるとかなら現代社会と古代の共存というたいへんワクワクする構造であるのですが、後付けならばそれほどでもない。道路工事のときにもうひと頑張りして道路を数メートル掘り込むだけで違ったんだけどなあと思う。ただ、古墳業界における面白物件のひとつであろうとは思う。

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▲歩道橋を渡っているときに道路を覗き込むと、あそこが古墳の断面にあたるのだとわかります。

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 渡りきって後円部を降りて眺めてみると、墳丘は結構大きく、周濠らしき窪みが墳丘を取り巻いている。大きな古墳が点在する馬見古墳群の中ではマアマアの大きさにすぎないかもしれないけれど、それにしてもマアマア偉い人の墓を真っ向からブチ抜く遠慮のなさは清々しくもある。

 この道路ができた経緯について調べたところ、1970年代のニュータウン開発で幹線道路を通す必要があったということらしい。それで古墳をぶっ壊したというのは、そんな映画がありましたね、平成埴輪合戦。しかし埴輪は微動だにしないので、ぽんぽこ音を立てたりしません。じつに動かないのです。

 

 その開発ブチ抜き工事には続く話があって、ブチ抜く前に発掘調査をしていたところ、裏手の林からブルドーザーの音が聞こえてきた。行ってみると別の古墳がものすごい勢いで削られており慌ててやめさせて保存したという、それが古墳業界では名の知れたナガレ山古墳であるらしい。

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▲削られてしまった側を復元して石葺きに、残っていた側を芝生張りにして保存してあるハイブリッド古墳です。(写真は石葺側)

君の名は无利弖。

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▲これがあの有名な江田船山古墳……

文字について考えてみたら、現在ってかつてないほど文字の時代だなあと思ったのである。Twitterで放っておいたらどんどん文字が流れていくし、最近は画像や動画や音のコンテンツも増えてるけどそれにしても文字情報ゼロってわけにはいかないし、やっぱインターネットは文字が基本で、そういやプログラムも文字で書かれてて、デジタルとか電子化の時代と言いながら文字ばっかなんですよね。紀元前に発明された古のアナログなツールなのに完全上位互換が未だに無いってすごくないですか。むしろ手書きの時代からデジタル時代になって使い勝手が一層良くなって、誰でも好き勝手に使えるようになってる。文字を使うことがこんなに簡単で自由なのはたぶん今が人類史上最高だと思う。

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▲江田船山古墳の隣にある虚空蔵塚古墳。今回の話には関係ないけど後円部の形も木の生え具合も濠も良い。

いっぽう、遡ってみると古墳時代ってのはほとんど文字を使っていなかったっぽい様子である。おかげでデカい古墳が残っていてもどういう目的でそんなにデカいのを造ったのかとか、誰の墓だとか、いつ誰が造ったのかとか、そういうのが全然わからない(おかげで楽しめるけど)。だから一緒に出てきた埴輪とかツボとか木の破片とかでどうにかこうにか年代とか造られた背景を推定しているのだ。こんなん当時の大王が一筆書いておいてくれたら「日本史の謎」とかいう胡散臭いのも全部解決してスッキリするのになあと思う。後世に記録を残すって大事なんですよ。2017年の我々が何を考えて生きていたのか、千年後にも誤解なく伝えないといけないですよ。

それで、これがその数少ない古墳時代の文字記録、東京国立博物館でいつでも見られる江田船山古墳の鉄剣銘です。常設展示に普通に置いてあってそれほど有り難みが感じられるわけでもないけど古墳おじさんにはたいへんありがた嬉しい。なにがすごいかというと古墳時代の人の名前が四人分明らかになります。これはすごいですね、何もわからない古墳時代の尻尾を掴むような感じだ。

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▲「獲   鹵大王」(左) 「典曹人名无利弖」(右)

まず獲加多支鹵大王=ワカタケル大王(=もしかして"雄略天皇")という天皇の名が明らかになり、この剣の持ち主で古墳の主であるおじさんすなわち无利弖=ムリテ氏の名が判明する。銘文からは大王がちゃんと大王って呼ばれてたとか、古墳造るレベルの偉い人でも名字が無かったとか、无利弖氏が大王の近くに仕えてたとかが分かる。

そう、これなんですよ、文字にしておけば後世に伝わる。やっぱ文字書かないとダメっすよ。と思う。

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▲展示の看板による文字の図。剣には四人のおじさんの名前が刻まれていた。

それだけではなく銘文の最後には剣を造った刀鍛冶の伊太和氏と、銘文を考えた張安氏の名前がわかる。張安氏は張が名字で安が名前、大陸系の渡来人であろうとのこと。中国の最先端カッコいい文化である漢字の銘文を作るにあたってプロに注文したのである。

あと、これはきっと伊太和氏の技ではないかと思うのだが、剣にはカッコいい馬の絵が彫り込まれている。

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という感じで、名前が出てきたおじさん四人、それぞれがどんな感じで生きてたかってのを想像すると、なんとなく現代とも地続きな感じがしてきます。文字で書かれているだけで、伝えられることはすごく多くなるってわけです。

ところで蛇足だけれども、「君の名は。」って文字による情報伝達が重要な要素なのです。スマホに文字を残して、直接会えない二人が言葉を伝えるとか、文字が壊れて、伝えられるはずのことがわからなくなるとか。君の名は何だったのか。あの「わからない」という感覚は、鉄剣に刻まれた消えかけの文字から古代の風景を見ようとする古墳マニアの心に近いのかもしれない。