田んぼにそそり立つ例のアレ

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アレとかソレとか言うのも何だし、有り体に言いますと、チンコの話をしようと思う。

チンコと言えば小学生男子の笑いのネタとしては鉄板で、ウンコと双璧である。とりあえずチンコって言っとけば小学生男子はゲラゲラ笑い転げるのだ。そう言えば小学生の時読んでたコロコロコミックの漫画なんかほとんどオチがチンコかウンコだった気もするし(というのは言い過ぎかもしれんけど)、当時の小学生男子としては学級王ヤマザキが毎月楽しみだった。

そんなことを考えてたら小学校の裏山で友達と遊んでたときのことが急に思い出されて懐かしくてちょっと涙ぐんでしまった。土の匂いとか、泥だらけのズボンとかさ。ミニ四駆を外に持ち出してオフロードでボロボロになったこととかあったっけ。もうあの山、道路工事で無くなっちまったんだよな、などと。こんな気持ちにさせられるのは全部チンコのせいだ。

ところで話は飛ぶのだが、チンコ好きということになると縄文人も中々好きだったらしい。上野の国立博物館には縄文時代の石棒がある。石棒とは石で作った巨大なアレである。いや、アレというのはチンコ。縄文人おっぱい星人であることは数々の土偶におっぱいが成形されていることからして明らかだが、チンコの巨大なやつまで作ってしまうとはかなりの小学生スピリッツの持ち主だったに違いないと思うものである。

ある書に曰く。

中でも長野県南佐久郡佐久穂町にある北沢の大石棒は全長が二メートル二三センチもあり、現在は水田の脇に立てられている。その様は見事と言う他ない。

つくられた縄文時代: 日本文化の原像を探る (新潮選書)

それで現地に行ってみたのが冒頭の写真であります。どうやら日本一のチンコであるらしく、看板にもそう書いてある。

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見事と言う他ない。

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全体的にデフォルメされたデザインであるものの妙な部分にリアルさを持たせてあり縄文のアーティストたちのこだわりが感じられる。

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と冗談みたいに書いてしまったのだが、前出の本によると石棒には摩滅痕とか叩き割った痕が見られるらしく、

「勃起→性行為→射精→その後の萎縮」という一連の状態を擬似的に再現する

儀式的な意味合いがあったという話である。
土偶のおっぱいも縄文人おっぱい星人だから作ったのではなくて繁栄を象徴する儀式的な意味があったのではないかと言われている。

……しかし。
いつの時代も小学生男子はアホであったに違いない。たとえ縄文の昔だからと言って、彼らが大人しくチンコを祀る儀式を神妙な顔して見ていただろうか。
村一番の石棒職人が最高のチンコを作ったとして、きっと彼は村じゅうの小学生男子たちのヒーローである。
またあるいは残酷な小学生男子的感性によって翌日から彼の娘のあだ名はチン子かもしれない。
石棒の前でひざまずいて祈る長老を見ながら、思わず噴出すのを我慢できただろうか。

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最後に、古墳時代まで下っておこうと思います。国らしきものが日本にも出来始めた時代。
福岡県の岩戸山古墳から出土した石人の一部「男根のある裸形の石人(下半部)」。
小学生魂は時代を超えて受け継がれたっぽい。

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富山と福井:二つの円墳

古墳に行くというのは二通りあって、古墳見学メインで出かけるときもあれば他の用事のついでに行くこともある。ついでのときは周辺に古墳がないか当たりをつけておくこともあるし、適当に散歩してたら偶然見つけてしまったりもする。どっちにしても、古墳のある場所というのは観光地でない場合が多くて、地元の人の生活圏からも微妙にずれていたりして、観光客とも地元人とも違う経路をあちこち横断して歩くのでいろんな風景が見られてたいへんワクワクする散歩になります。
今回はそうして用事のついででたどり着いた二つの古墳。

地鉄寺田駅の駅員さんがたいへん親切な方で、乗り換え待ちが1時間以上もあるということを教えてくれた上に、駅前の道を右に行ってくださいと、近くのコンビニまでの道筋も教えてくれた。地方に行くとこうしてときどきたいへん親切な人に出会うので嬉しいのだけど、このときは近くに古墳があることを知っていたので、厚意に反するのを心苦しく思いながら駅前の道を左に曲がった。
富山の風景は独特で(というのはどこの県に行っても思ってる気がするし事実そうなんだけど)平野の真ん中に立つと必ず立山を背負ってる。それから、平野がそのまんま日本海に開いているので青空が広がるような時期は清々しいし冬は寒々しい。同じ日本海側でも若狭湾から山陰にかけてとはちょっと違う、ような気がする。

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徒歩15分くらいで田んぼの中の線路の向こうにいかにも古墳っぽい盛り上がりが見えてくる。止まれ見よの先にある古墳。近頃探している鉄道-古墳風景である。

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この古墳は周濠の跡が田んぼの形に残されていて、ちょうど稲刈りの直前の時期だったので手前の休耕田との色の違いでよく分かる。墳丘もちゃんと円形で残っているし、表面には葺石がコロコロ転がってます。富山県で葺石がある古墳はこの稚児塚古墳だけなんだそうで。そういえば富山県ってスゲエデカイ級の古墳が無いですよね。稚児塚古墳の主は説明看板にあるとおり「かなり有力な一族」であるのか、それとも中央になびいたイケ好かない大和かぶれだったのか。個人的には地方の首長は中央に頭を下げつつも野望を抱くイカしたオジさんであってほしい。しかし現代でもそうであるように、地方の偉い人というのはおおむね普通のオジさんなのであろうとも思う。

敦賀で暇だったので、駅前でナイスなチャリを借りて神社や港や砂浜を爆走していたのだが、それでも時間が余ったので気になっていた西福寺という寺に行ってみた。理由は単に古い寺だからということなんですけど、行ってみたら予想外にいいんです。静かな田舎の寺という感じで、寺というのは何よりも静かで穏やかなのが良い。本堂に座ったり、庭の隅で座ったりしたときに静かなのが良い。特に西福寺の庭は音が良いんです。庭に下りて水の流れる音を聞いてるだけでもいいけれど、庭を歩きまわってもいいということで歩いてみたら、場所ごとに音が移り変わっていく。京都の寺の有名な庭で同じような音の変化に驚いたことがあるけれど、それが敦賀の静かな古寺にもあるというのはまた違った趣でなお穏やかで良い。庭の良し悪しを言えるような知識は無いけど、良いと思った事実はある、ということです。

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▲西福寺の庭
ところで古墳はと言うと、寺に向かう道の途中にありました。神社があるのかと思って看板を見たら古墳と書いてある。階段を登ったら綺麗な墳丘があって石室もちゃんと開いている(開いているのがちゃんとと言えるのかどうかは知らない)。まったく予定外でもこんなふうに古墳を見つけてしまうこともあるんだなあ。

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どこにでもある量産型の古墳ではなくて、石室の奥に石棚があるのが珍しいらしい。お地蔵さんが祀られてて下からは支えが入っているので後付けの棚のように見えるけど、棚板は壁に埋め込まれてるので作り付けだ。お供え物を置く棚とはオシャレなものだなと思ったが、石室の石積みを補強するためのものだとか、棺を覆うためのものだという説も有力のようで(というか色んな用途があるのか?)古墳時代人の感性はやはり我らとは違うっぽい。

土器を抱えて運びたい

出光美術館の展覧会に行ってきました。

開館50周年記念 東洋・日本陶磁の至宝 ―豊麗なる美の競演(トップページへのリンク)

展覧会のテーマからは逸れるのだけど、途中に展示されてる弥生土器でウヒョーってなった。照明の当たり具合が絶妙なのか、理由はよく分からないけど、ウヒョーなのです。いきなり抱きつきたい。抱えて運びたい。どこへ運ぶかというと、きっと墳丘墓の上だ。抱えたら体に密着した時の収まりがすごく良さそうなのである。今まで弥生土器でそんなこと考えたこともなかったけど、なんでだろうなあ。やっぱり照明のせいだろうか。
(参照できそうな画像がネットにはないので似ているものとしてMOA美術館のページをリンクします。こんな感じ↓)(画像リンク切れのようです/2016.11.06)

www.moaart.or.jp

それでちょっと弥生土器の形を思い出しながら何の根拠もないことを考えていたんですが、弥生土器ってツルッとしてて抱えやすそうですね。いや実際抱えやすいに違いない。抱きついたらひんやりしててすべすべしてそう。そして当時の人はもちろんそれを運んだはずだから密着フィット感やすべすべ感を味わっていたのだ。ことによると、
「もっと運びたい……」
「運ぶのをやめられない……」
という依存症に陥っていたかも知れぬ。

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▲縄文土器はゴツゴツしててあきらかに抱きつきたくないが、

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▲弥生土器はツルッとしていて抱き心地が良さそう。(写真は東博の常設展示)

話はあさっての方向に飛ぶのだが、以前、労災の話を聞いた時にこんな事例が出てました。階段で転んで怪我をした事故の原因を探ってみたら、手すりが錆だらけで触りたくなかった……もしも綺麗に手入れされていたら咄嗟に掴んで転ぶことはなかったのではないか、と。誰もがすすんで災害防止の行動をしたくなるような対策が必要だというような教訓だったか。

壺に話を戻すと、誰もが抱えて運びたくなるような壺があったとしたら、墳丘墓に壺をずらっと設置するような工事もみんな喜んでやったかもしれない。のみならず、そもそも壺を運びたくてしかたないピープルが壺を運ぶ理由を作るために壺を使う儀式を生み出したかもしれないのである!(な・・・なんだって――!)

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▲運びたい……。

そんなわけで、こんどは東博に移動して、抱きつきださに注目して古代からの陶磁器を見てみることにした(今回の写真は全部東博の展示物です)。感想にとくに根拠とか裏付けはないです。

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▲縄文土器は基本的にゴツゴツしてトゲトゲしてるのであまり抱きつきたさがない。そもそも縄で紋様を付けた=縄のコピーであるので、これに抱きついて土器感を楽しむとすればそれは縄を楽しんでいるようなものである。

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▲でも晩期になるとツルッと感が出てきて抱きつき用土器の萌芽が見えます。

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弥生時代になるとさらにツルッとしてしかも程よい下膨れで、くびれ具合も柔らかく、小さい壺は両手でそっと、大きい壺は全身でしっかりと抱えて運びたくなる。

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古墳時代は須恵器になると抱きつくには硬くて冷ややかな印象だけれども、小型の土器はむしろ両手で包み込みたい欲求を掻き立てる。

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古墳といえば円筒埴輪。大型古墳には1万本以上も作られ且つ運ばれた土器なのでさぞ抱えたくなるはず……と思いたいのだが、これは……運びたくならない……。どうしたことだ。いや、考え方によってはこの横方向にぐるりと巡る出っ張りの間に腕が絶妙にフィットして得も言われぬ抱きつき感が得られるとかだ。

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▲埴輪の馬に関しては抱きつきたいし運びたい。

せっかくなので海外も行ってみよう。東洋館に揃ってます。

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▲抱えたいといえば真っ先に思い浮かんだのが西アジア展示室の潜水艦。キプロスの水差。こんなふうに浮いた状態で展示されてたら抱えたくなる。ラグビーボール的な。

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▲イランの彩文土器は真ん中の膨らんだところを下から両手で支えるように持つとおそらく程良い。

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▲高麗からは水注。これは把手付きだけれども、右手で把手を持ちつつ左手を丸いボディに添えて支えたい。朝鮮ものは全体に装飾を排したツルッと感やスベスベ感があって運びたい度が高いです。

数字の入った名前

数字の入った名前って、いいなと思ったの

大きな鳥にさらわれないよう川上弘美講談社

古墳時代が終わりに近づくと、それまでは大きな墓を造ることがなかった階層の人々も古墳に葬られるようになり、彼ら多数の墓は各地に古墳“群”として現代に残っている。小さくて、目立たず、学者によって個別のカッコいい名前が付けられている前代までの王墓とは違って、通し番号しかない。

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89号さん。
本当の名は何と言ったか。古墳の時代よりも少し後になるけれど、古代の木簡を調べると動物名をそのまま付けたような名前が結構あったらしい。鯨さんとか、犬麻呂さん。鯛さん。その他。

少なくとも彼には、大きな墓を造ってくれる家族か、部下か、仲間がいた。それが真心込めたものか、儀式上仕方なく嫌々やったのかは定かではないけれど。ともかく一緒に暮らす人がいた。

都に出仕した息子が年に一度は墓参りに帰ったりしただろうか。

などと。
ちょうど盆休みなのでそんなことを考えてた。

買い換えたカメラのこと

少し前に新しいカメラを買いました。中古だけど。GX8。

panasonic.jp

世の中に初めてミラーレス一眼が登場したころは、デカいレンズ着けたカメラを顔の前に掲げて画面を見ながら撮るスタイルがなんだか「ダサい」という感じだったのだが、ミラーレスが売れに売れて一般的になってくると今度はファインダーを覗いて撮るのが「時代遅れでダサい」と思えてくる。どんどん新しいのが出てくるのでただでさえ移り気な気分の移ろいはなおさら加速し、手のひら返しが風速計みたいにクルクル回っている。

これまでも一応ミラーレスのK-01を使っていたんですが、K-01は一眼レフとマウントを共有しているという未練が残っていた。未練というか、一眼レフのダサさとミラーレスのダサさの間にある「ダサくなさの尾根」みたいな待避線だった(と思っている)。実際にデザインもコンセプトも他にはない独自路線ってのが良かったし、みんなに駄目って言われてるのが余計に、捻くれた心に響くカメラだった。

K-01 | RICOH IMAGING

K-01を買った当初は、言われてたようにAFが遅いとか色々と不満もあったけれど、慣れればそんなでもなかったのです。写真の画質という点では問題無かったし(普通のPENTAXって感じだ)、むしろ手に馴染めば良い具合です。気に入ったのでダイヤルとか壊れても接着剤で直して使ってました。当面は使い続けよう、と。

ただ問題があったのは動画の画質で、一応フルHDではあるものの、なんだか粗い。今は一眼で動画を撮るのが流行ってて画質面でも相当なものらしいけれど、どうもこのカメラはその水準に達していないのではないか――。このところyoutubeとかに影響されて動画を撮ってみようという気分になっていて、実際にK-01で撮ってみたんですが、やっぱりちょっと物足りないのである。


福島、桜 - cherry blossoms (sakura) in Fukushima


身延山 - Mt. Minobu

それで、K-01を長らく使っては来たものの、ついに買い換えることにしました。買い足しは使わなくなるともったいないのでしない。古いのを売って新しいのを買う。新しく買うカメラは、ミラーレスで、べらぼうには高くなくて、動画をある程度の画質で撮れて、写真もそれなりに撮れるやつがいい。単に動画だけなら安いのでもいいけれど、音を録ることも考えるとマイク端子が必要になって、結局シリーズ中一番高いのを買うことになった。

GX8で撮った写真は、PENTAXとは違う。当たり前だけれども。どちらかというとあんまり好きではない方向に違う。緑とか青とかがなんか単調でのっぺりしてるというか、たぶん、いわゆるデジタルっぽい。でもここらへんは設定をいじればもっと変わるだろうしそういえばカメラを買い換えるたびに同じこと考えてて、K-01のときもかなり色々設定試したの思い出した。色々やってみよう。

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▲龍角寺岩屋古墳

AFは超速い。ボタン押したら速攻で合う。ISO3200とかで撮らなきゃならないような暗いところだとハズすこともあるけど。あと遠くの山の霞んだ稜線とかも難しい。それから、超静か。今までギュインギュインとモーター回してたのが実にアナクロに思えてくる。静かすぎていつの間にか合うのでかえって速さの体感が無いくらい。

AFと言えば、タッチパネルでフォーカスポイント選べるのが超便利です。今までは中央のフォーカスポイントだけ使ってフォーカスロックやってて、それはそれであまり問題にはならなかったけど、構図を決めた状態でフォーカス合わせたいとか、コサイン誤差が嫌だと思うこともときどきある。タッチパネルだとメニュー開いて十字キーで選択とかする必要もなくワンタッチで便利。

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▲神明山古墳(前方部)

困っていることは、ボタンの感度が良すぎる(あるいはボタンが無意識に触れてしまう配置のせいかも)ことで、ちょっと触れただけでファンクションキーのメニューが出ちゃう。手がわりとでかい上に結構力を入れて握りこむことがあるのでいつの間にかボタンを押してしまってることがあるのだ。これに対しては撮らない時は電源OFFにしとけば問題なくなった。大慌てでシャッターチャンスを捉えようってほどシビアなことしてないし、起動も速いのでこれでいいと思う。

ところで古墳を撮るときにどうかというと、機能面では全く問題ないしそもそもAFとか機能の豊富さが全然意味を成さない被写体なので特に言うべきこともないです。あえて挙げるとアスペクト比が4:3ということで、古墳を横から撮ると(サイドビュー)上下に余計な部分が写るので3:2よりも収まりは悪いです。とは言えトリミングすれば問題ない。

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▲枡塚古墳

最後に、カメラを買った理由である動画についてですが、これはもう以前使っていたあらゆるカメラに比べて断然にいい。4Kも撮れるというのがウリで、ネットにも4K動画の作例がいくつか上がってて、すごいですね、これは。PCのスペック上ちょっと4KはキツイのでフルHDで撮ってるけれども、これでも現状は十分すぎるくらいです。


丹後 Tango

東田子の浦駅周辺のふたつの古墳と浮島ヶ原について

東海道本線の静岡県内区間といえば各駅停車で東西へ通過する向きにはある種の難所として有名(↓)

https://www.google.co.jp/#safe=off&q=18%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%B7%E3%80%80%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C

だが、古墳趣味者にとっては必ずしも面白みがないわけではない。

というのも東田子の浦駅の東側に古墳がふたつ並んでいる。単に並んでいるだけなら珍しくもないけれど、どちらの古墳も線路に隣接……というか線路のせいで削られていると言ったほうが正しい、何か恨みでもあったのだろうかと思うような雑な扱いであるが……ともかく古墳がふたつある。

線路に接して古墳があるということは、古墳と鉄道を並べて写真を撮れるのではないかと期待できるのである。そういうわけで、写真を撮りに行ってきた。

 

  • 庚申塚古墳

双方中方墳(解説看板による)という全国的にも珍しい形の古墳である。ただし現状では四角っぽさがかなり薄れてただの砂山みたいになってる。
庚申塚古墳は南端が削られて線路が通っている。古墳西側の道路が線路に突き当たった部分から撮ると、電柱が邪魔だけどひとまず古墳と電車がひとつの画面に収まった。ついでに愛鷹山も含めてパノラマに。

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地質時代的地形である愛鷹山古墳時代的建築である庚申塚古墳と現代的車両である211系の、10万年越しのコラボだ。

 

  • 山の神古墳

前方後円墳(解説看板による)だけど庚申塚古墳と同じく、上に登ってみても形がはっきりとはわからない。現在の参道は踏切の脇から線路沿いに細い通路があるだけだが、線路を挟んだ南側に鳥居があってそちらが本来の参道っぽい。鳥居と神社の間の線路には踏切がなくて完全に孤立している。鳥居の側から撮るとこうなった。

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▲鳥居のある南側から線路を挟んで古墳を撮る。背後は愛鷹山。電車は313系

 

  • 浮島ヶ原へ

というわけで線路沿い古墳で写真を撮るという目的は果たしたのだが、あまりにも駅近お手軽で時間を持て余したのでもう少し深入りしてみようと思う。というのも、こんな写真を見つけたことによる。

幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース-[レコードの表示]

富士山が見える沼。今では無くなっているけれども、今の東海道本線で言えば沼津から吉原あたりにかけての広い低地が浮島ヶ原という沼地だったそうである。そういえば岳南鉄道の駅名も内陸なのに須津とか江尾とか、水辺っぽいのがあるなあ。

内海とか潟湖という、かつて海だったのが取り残されて湖になったような地形は、昔は全国あちこちにあったそうである。そしてそういう湖の岸辺には古墳がある。交易船を停泊させるのに都合が良かったという話もあるし、魚介類がたくさん採れて生活しやすかったのかもしれぬ。今では干拓されて田んぼになって、我々の食べてるご飯の何パーセントかは干拓地由来なのだが、しかし現代に沼が残ってたら富士山のビュースポットになったかもと思うとちょっと惜しい。

上記ふたつの古墳が位置するのは沼地の南側、海と沼を隔てる砂丘の上。実際に歩いてみると古墳の北側(沼側)へ向かって緩やかな下りになっていて、古墳はおそらく岸辺のちょっと高いところから沼を見下ろすような立地になっている。南側はもう少し高くて、旧東海道の道路は一番高いところにある。

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▲古墳近辺から北側を見ると徐々に下っているのがおかわりいただけるだろうか

古墳時代東海道がどこにあったのか記録があるわけでもないけれど、現在と同じく沼地の南側だったらしい。その後平安時代の海面変動で海に近い場所が水没して、一時的に沼の北側(愛鷹山との間)に移動していたとのこと。北側ルートは、そちらはそちらで浅間古墳などあって、古代からある程度栄えてたようだ。

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▲現代の浮島ヶ原周辺(吉原駅付近)

 

浮島ヶ原と東海道に関しては以下の本に記載がありました。

中世の東海道をゆく―京から鎌倉へ、旅路の風景 (中公新書)

事典 日本古代の道と駅

日本古代道路事典

また平安時代の海面変動(平安海進)について

古代日本の気候と人びと

国分寺の瓦の色

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地方の大きな古墳を見に行くとわりと国分寺跡が近くにある。ような気がする。なんで古墳と国分寺が近くにあるかというと、(たぶん)大きくて見ごたえのある古墳がある場所は古墳時代には県庁所在地的な都会だったはずなので、それから二百年くらい後の奈良時代にもやっぱり県庁所在地的な都会だったに違いなく、なので政治的な寺であるところの国分寺は古墳の多い地帯の近くに建てられたいう、そんな感じである。たとえば東京なら府中に古墳があって隣の国分寺国分寺跡があるという具合だ。

でも土盛りさえ残ればいい古墳とは違って国分寺とかの建物は長い年月のうちに燃えたり壊されたり朽ちたりして、残ってないです(残ってたら法隆寺みたいに国宝になる)。あるのは土の中の基壇とかそういう石だけで、跡地は整備されていたとしてもだだっ広い野原だったりする。去年出雲の国庁跡に行った時もやっぱり跡地は野原だった。田舎の稲の匂いがする風が吹いている中で蕎麦畑と神奈備の山を見ながらボケーっとするという、これはこれで良い秋休みだったけれど。古代の都会は田んぼになってしまったのである。

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野原と化している建物跡が多いのではあるけれど、上総国分尼寺跡は復元整備されてました。建物が復元されてるのって奈良の平城宮跡とかくらいで、奈良以外ではたぶん、あんまりないです。何億円か掛かったらしい。ガイダンス施設もあって、客一人でもガイドしてもらえた。復元された回廊は法隆寺も参考にしたそうで、この連子窓ところなんか法隆寺っぽい。雰囲気が似てるのである。なお本物の法隆寺の連子窓のところは金堂と五重塔がよく見えてナイスなポイントです。

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本当は基壇のある場所には金堂を造りたかったけど大きな木が生えてたからそのままにしたとのこと。でも建てたら行政が宗教施設造ったことになって揉めそう。国家仏教はもう無いからいいのか。
大仏建立というのもあるし、もういっそ国分寺復興して鎮護国家の祈りを捧げるのもアリだ。

www.huffingtonpost.jp

 

ところで、瓦の色です。展示室に並んでる瓦を見ると分かります。こんなふうに。

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左がこの国分寺の瓦で、右が奈良の平城京の瓦。色が違う。焼くときの温度の違いで色が変わるらしい。あと、大都会奈良の最先端の技術で焼いた瓦とは違って、焼く窯の技術のバラつきがあってあんまり一定した品質じゃなかったということです。遠く昔のことなのでありそうな話だけれど、とすると復元した回廊は奈良式の黒い瓦でいいのだろうか。建設中の寺に近所の瓦窯からいろんな色の瓦がつぎつぎに運び込まれてきたとしたら、

「色違うけどどうしよう」
「困ったなあ」

ということになる。でももう金は払ったし使わないわけにはいかない。ならばたぶん屋根にはこう並べることになる。

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もしかして全国の国分寺の屋根は縞模様とかモザイクになってた可能性が無くはないなあと。そうだとしたら朝廷から地方にやってきたお役人は国分寺の屋根を見て(地方に来てしまった……)と寂しくなったかもしれないし、(すげー田舎っぽい!)とワクワクしたかもしれない。

そういえば以前、都会から田舎に遊びに来た人が瓦屋根を見て「この辺は立派な家が多いですね」って言ったのを聞いて、そんなもんかなあと思ったことがある。考えてみると東京の街中で瓦屋根ってあんまりなくて、スレートとか、ビルだったらコンクリートですね。屋根って結構、その土地の印象を左右するかもしれない。中国地方に行くと石州瓦で赤いのが独特だなあと思うし。実際のところ古代の寺とか政庁の屋根事情ってどうだったんでしょうか。ビジュアル的に今までのイメージとは違ったりするのだろうか。